テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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前期課題の小論文 2006-05-28

シラバス・ここまでの授業で予告した通り、
次のように小論文を書いてもらう。

【1】テーマ:「春(または初夏または夏)、テレビについて思うこと」
   つまり、なんでもいい。

【2】提出方法:この記事に対するコメントとして、このブログに
   書き込むこと。その際、適当なサブタイトルを10文字前後で
   つけ、Subject欄に記入のこと。Name、Subject、Comment、
   Pass欄以外には、何も記入しないように。

【3】字数:800字(空白や改行マークは含まず)。行頭は一字下げ、
   適当な段落ごとに空白行を入れよ。

【4】提出期限:6月9日(金)

以上である。
みっともないから、字を間違えないようご注意。【坂本衛】

【29日追記】パスワードにつき「受講生への注意」(4月27日記事)
を熟読せよ。

コメント

すばらしい公開性!!

赤尾@静岡大学情報学部です。

当方も某演習授業で「ブログ演習」がありますが,「実名公開」の顕名性はすばらしい!! 当方は「匿名原則」なもので。大学生が授業の一環で実施するブログで,実名を公開して何を失うものがあるのかって感じです。毀損されるほどの名誉がありやなしやと。

当方も「メディア・スタディーズ」という主にテレビ番組を題材にした演習授業があるんですが,ブログ演習と受講者がかぶっているとはいえ,分析のための道具箱がようやく揃い始めたという感じですかね。

学生も含めて,腕を撫して,このブログにコメントしにきます。ブログでの立ち居振る舞い,というか弁論術だけが当方の強みだと思いますので。

赤尾 晃一@静岡大学情報学部助教授

恐縮です。

早速にありがたいお言葉、恐縮です。

ま、何はなくとも、中身もなくとも、名前だけは出しておけ、
ときに勝手に名指しで他人様を批判するかもしれない以上は、
ってことですね。

別に匿名だろうが実名だろうが、中身の出来や善し悪しには
関係ない。たとえば、私が関わっている年3回刊「オフレコ!」
のメイン座談会は、田原総一朗以外全員匿名ですが、
話の中身は大マスコミの編集委員レベルなわけで。

中身に関係ないなら、どうでもいいので、不都合がなければ
名前を出せばよい。小学生の部活ブログなら、犯罪その他が
心配だから匿名にすべきだと思うが、二十歳すぎの大学生は
自分の身くらい守れるはず。むろん彼らにも名誉はあるが、
それが毀損されれば戦えばよい。戦うまでもない、くだらない
と思えば、放っておけばよいでしょう。
そこらへんの感覚というか間合いを身につけてもらうことも、
この授業の目的だったりするわけです。

ま、どうなることやら。
お手柔らかにお付き合いのほど、よろしく。

実名/匿名は学生の選択

> 国公立大学の学生諸君が匿名ブログや学内限定ブログで可哀想にシコシコやってるときに
(日録メモ風の更新情報,5月28日付)

本筋とはまったく関係ないのですが,いちおう学生のために弁明を。ブログが匿名なのは学生の判断によるもので,教員の強制ではありません。また学内限定ではなく,広く公開しております。

日大で能動的にこの授業を受けようという学生と,静岡大学で必修として授業を受けざるをえない学生とでは,「公に発言すること」への覚悟が異なることは否めません。小学生の「部活ブログ」と同じと言われても仕方がない部分があります。だって,マスメディア産業従事者を含めて「表現する仕事」に就くのは,50人近くの受講者のうちせいぜい2~3人というところですから。

繋がりで築いてきたもの

 私は放送学科の学生だが、テレビをあまり見ていない人間だと想う。

 そもそも、テレビを見るのが好きな人はあまりこの学科を希望しない。ただ楽しみたいのなら、一般企業に就職し、定時に仕事を終え、のんびりビールでも飲みながらテレビを見ればいい。それがテレビとの一番まともな接し方だと想う。
 少なくとも私は、テレビが出来るまでの過程が好きなのだ。番組を企画し、スタッフを集め、出演者を決め、事前準備に追われ、緊張感の中で収録を行い、それを編集し、放送の電波に乗せて流す。その過程のどこかに、自分を置きたいのだ。一瞬しか映らない映像の裏にいる、何百人と言う人間の苦労、彼らがふと見せる仲間との楽しそうな笑顔を想像する。ひとつの物作りに集中し、一致団結する集団の空気感そのものに、私は惹かれるのである。

 一般の視聴者から見たテレビとは、一体どんなものなのだろうか。好きな俳優が出ている、内容が面白い、ニュースが見たい、雑学が学べるから。そんな感じの答えしか返ってこない気がする。「なんとなく観る」。これがテレビの良いところであり、悪いところでもある。「一家に一台」はとうに終わり、今や一人に一台という時代である。だからといって、誰もがテレビを真剣に見ているかと言われれば、そうではない。あくまで娯楽、あくまで受動なのである。逆にここ数年で急激に利用者が増加したネット業界は、能動である。流れてくる情報だけ受け取る時代から、アクションを起こし、同時に自らも情報を発信する時代になった。

 ネットの情報発信は一人でも可能である。テレビではそうはいかない。それが私にとって大きな違いである。他人と関わらずにつくった物の、何が楽しいのか。私には分からない。情報を発信するのなら、それを受信する存在が不可欠である。ネットは受信数よりも発信数の方がはるかに上回っている。受信する人がいない情報を発信して何になるのか。
 少なくとも、テレビには仲間の存在がある。直接的な人間の繋がりの上で成り立っているのである。同じ釜の飯を食べ、汗水垂らしながら作り上げた作品の方が、愛せるのではないか。私はそう考える。

テレビ離れとテレビの魅力

私はテレビをあまり見ない。そう言う人が最近増えてきた。私もその一人だ。放送学科で学んではいるものの、日常的にテレビをつけて見るということはあまりない。理由は単純に時間がないからというもので、見るのはたまに夕方のニュースくらいだ。私の周りにいる放送学科の友達だけではなく、社会的にもテレビの視聴者は減ってきているという。
なぜテレビを見ない人が増えてきたのだろうか。
ここ数年、テレビ離れとインターネットとの関連が取り沙汰されてきた。確かにテレビのニュースで得られる情報は、ネットでより詳しく多角的に得ることができる。オンエア時間にテレビのある場所にいられない場合は、自分の好きなときに自分の気になる情報にだけ調べれば良いと思う人は多いだろう。
したがってテレビの欠点として、「オンエア時間」というものが第一にテレビ離れに繋がっていると思う。もちろん現在ではほとんどのテレビ視聴者の家庭に録画できる機器があるので、必ずしもオンエア時間を過ぎればもう見れないということにはならない。しかし、作品として視聴者が取っておきたいと思うような番組ではない限り(特に即時性が求められるニュースや天気予報、情報系の番組)は録画されるケースは少ない。
また、昨今のテレビで視聴者が取っておきたいと思う番組がどのくらいあるのかも疑問に思う。テレビをあまり見ない友人数人に、なぜ見ないのかを尋ねたら「おもしろくないから」という痛烈な答えが返ってきた。確かにおもしろくないと思うならテレビから離れていくのは当然だ。
オンエア時間、そしておもしろくないという意見、テレビ離れのこの二つの理由は、本当に正しいのだろうか。
私は放送時間があるからこそ、楽しめるものもあると思う。また、放送されるまでその番組がおもしろくなるか、わからないのも逆にテレビの魅力なのではないだろうか。これから地上デジタル放送も普及し、テレビの役割や内容も変わると思う。まだテレビをあきらめて目を離すには早いかもしれない。

テレビの現状と必要性

 私は放送学科でテレビについて学んだが、学べば学ぶほど現状のマイナス面を知り、その度に情けない思いでいっぱいになる。

 「夢を見させてくれるハコ」としてのテレビの番組は正直、あまりないように思う。
 報道番組はバラエティ化し、事件をドラマ仕立てにしようと平気でプライバシーを侵害する。バラエティ、ドラマでは力のある事務所が物をいい、魅力がどこにあるのかわからないようなタレントが画面を飾ることも多い。制作側は視聴率を過度に気にして、本当にマーケットリサーチをしたのか疑問になるような、似たような番組を多く作っている。
 そして公の機関であり、「手本」であるべきNHKは逆に民放のまねをする。その上、週刊誌に隠蔽体質を暴かれて焦っている。もはや、視聴者はどのテレビ局を信じればいいのか途方にくれる状態である。

 では逆に、もしテレビ番組がなかったら世の中はどうなるだろう。
 もしテレビの報道番組がなかったら、視聴者は携帯電話やパソコンを使い、インターネットでニュースを仕入れるであろう。しかしこれらはお金がかかる。自分で動かなければ情報を手に入れることができず、情報を持つ人と持つことができない人の格差が生まれるかもしれない。
 もしドラマやバラエティ番組がなかったら、仕事や学校から帰ってきてテレビをつけて、ほっと一息つくことができない。インターネットで見ることもできるが、同様にお金がかかってしまう。家で笑ったり泣いたり感動することが少ないと、特に1人暮らしの人はますますストレスを感じてしまうかもしれない。

 あくまで仮定だが、そう考えるとテレビはまだまだ私たちの生活になくてはならない存在のように思う。テレビはパソコンや携帯電話に比べて普及率が高く、生活に密着したメディアであり、その分影響力も絶大なのだ。せめて、テレビマンを目指す同輩・後輩は、そのことを念頭に置きながら番組作りをしてほしいと願っている。

テレビ(報道)を考える!! (静大編)#1

ひっそりとコメント。

坂本さんの方式に倣い,静大情報学部2年生の「メディア・スタディーズ演習」という授業(赤尾の担当は3コマ)で,テレビ(報道)批評のリポートを提出させました。秋田小1児童殺害事件と村上ファンド事件の二つの逮捕劇が中心になりました。バラエティ番組,スポーツ番組の批評も一部含まれています(そういう課題設定だったからです)。

http://aka.oops.jp/gov/index.php?eid=57
15名のブログにエントリーに飛べます。ひっかかる部分があれば,ぜひコメントを付けてやってください(このエントリーの日時の作為性にはツッコミなしで)。

また,坂本さんとわたしの崇高なる論争に参加して,ぜひブログを炎上させてください。
http://aka.oops.jp/gov/index.php?eid=51

地上デジタル放送を考える

 2011年にアナログ放送が終わり、放送は全てデジタル化される。「地上デジタル放送」は従来のテレビメディアの進化系であるが、これについて少し考えてみたい。

・映像と音の品質向上
・携帯電話やインターネットとの連動
・見るだけだったテレビに、視聴者が参加出来る双方向番組の登場
・随時チェック可能な、ニュースや気象のデータ放送
・一度に多数の番組を表示出来る
・高齢者向けに字幕などのサービスが充実

 従来の放送より優れている点は他にも多数あり、いずれも驚かされるものばかりだ。ただし新機能は、視聴者にどこまで利用されるのか疑問が残る。

 従来のテレビの良さは、単純なところにあるのではないか。好きな番組を探し、無ければ見ない。飽きたら消す。自分のペースで利用出来るところが良いのだと思う。

 ところが地上デジタル放送になって追加された要素を見ると、今以上にテレビを利用して、初めて価値の出るものも多い。それこそ地上デジタル放送の仕掛人が狙っているところなのだろうが、新機能を全て使いこなす人がそうそう現れるとも思えない。
 そもそも大多数の視聴者が、テレビにこれほどの変化を求めてはいないと思う。自分がその中の一人で、現在あまりテレビを見ていない立場にあり、デジタル放送の内容に驚きはすれど機能を利用するかどうかは別問題である。

 現在、テレビ離れが進んでいる。地上デジタル放送はそれに待ったをかけるべく実施されているはずなのに、視聴を強いるような新機能を並べたところで、あまり効果は期待出来ないのではないだろうか。
 それより、世間の流れに合った、より面白い番組をつくることを各局とも尽力したほうがいい。視聴者が参加出来る双方向番組などは、全く新しい番組を確立する可能性を秘めているから、これには大きく期待したい。

 地上デジタル放送は待ってはくれない。テレビの変化に視聴者はどこまでついて行けるのだろうか。興味深く見守りたいと思う。

テレビのあり方

 私はインターネットが普及している現在、テレビという存在が急速に人々の生活の中で少しずつ薄れつつあるのではないだろうか、と思う。

 以前のように、テレビ欄を見てチャンネルを合わせ放送まで待つ時間。家族と共に楽しみながら見る時間。それらは家族間でのコミュニケーションを取る為の手段であり、なくてはならないものであったように思う。
 しかし、インターネットによって検索をすれば視聴者が求めているものに瞬時にアクセス出来る。決められた枠組で楽しむのではなく、視聴者自らが選べる、好きな枠を作る事が出来る時代が近づいている。

 そうするとテレビでインターネットが流行ってしまうのだろうか。しかし、周りを見ても興味を示す人を見つけられないぐらい盛り上がっていない。
 ここ最近、携帯電話は勿論、ブログ、チャット、ソーシャルネットワークなどこれまでと違った形で個人と個人を結びつける新しいコミュニケーションツールが流行しているように思える。そこでリビングにドンッと構えたテレビがコミュニケーションツールになる事はまず考えられない。何故なら個人用のツールではないからだ。
 デジタルテレビの利点として、視聴者参加型としているが、一人で大きなテレビ画面に向かって何かアクションを起こした事で何が楽しいのだろう。従って、あくまで私の予測でしかないが、インターネットという無限の世界で様々なコミュニケーションツールを介して自分の世界観を創り出す事に面白みを感じる人が多くなってしまうのではないだろうか。

 それは人々の社会性に欠けてしまう可能性があり、危険な時代が近づいているといっても過言ではない。だからこそ、その様な傾向を少しでも食い止めるような番組をテレビで放送して欲しい、約50年前テレビの登場によって人々に心のゆとりをもたらした様に、再び新しい生活を演出する主役となって欲しいと心から願っている。

情報入手の方法

私のニュースの情報収集源は、携帯電話に1日3通送られてくるメールだ。1通につき3件のニュースが載せられている。毎日新聞の系列のサイトである。ニュースの概要が箇条書きで書かれているのみなので、詳しいことはそのメールだけで理解するとは不可能だ。気になった事件をネットで調べたり、テレビを見たりする。
 毎回欠かさず特定のテレビ番組を見ているわけではない。毎朝必ず新聞を読んでいるわけでもない。興味のある事柄を取捨選択し、必要に応じて必要な情報を得ている。
 本来世の中のこと、特に話題として取り上げているニュースは常識として知っておくべきである。放送学科に属している私ならばなおのことである。しかし忙しく過ぎていく毎日の中でゆっくりテレビを見たりする時間を作るのは難しい。それは今の現代人にも言えることで私だけではないはずである。
 必要なものを必要なだけチョイスする。受身でなく能動的に情報収集をする。これが今のスタンスなのではないか。
 そうなるとテレビの役割・重要性はなにか。朝昼夜とどの時間も情報番組は流れている。でも一日中テレビの前にいることはそうないはずだ。
 インターネットが普及し、どこでもとまではいかないが、いつでも自分の好きなときに知りたい事柄を知ることができる。インターネットがなくては就職活動ができないくらいだし、いまやなくてはならないものだ。その必要なものを自分の都合でという利便性が最大のメリットだろう。
 しかし言葉でどれだけ迫力ある文章を作っても、目で見るリアルな光景ほど印象に残るものはない。
 テレビで報道されるものは現実を体験できる。文章を絵として見ることができる。世界のどこかで起きた事件を、実際に見ることが出来るのがテレビだ。実際に起きた事故現場や犯人の顔などを動画で見れる。それはやはり字面よりも大きな影響力を持つ。
 そしてスピード性もテレビの特徴ではないだろうか。地震情報など急に予期せぬできごとが起きた時、とりあえずテレビをつけて何か確認をしようとしたことはないだろうか。テレビが一番身近にいち早く知らせてくれるという認識があるからだろう。
 ではテレビ報道は決定的なスクープ映像を瞬時に収めることが目的なのか。それだけではないはずである。テレビのそのメリットを生かしてインパクトのある情報提供ができてばもっと強みができるはずだ。
 インターネットや新聞、ラジオなどいろんな媒体を駆使しながら、私達は情報を得る。
 ただたれ流しではなく、テレビでなくては知ることができない強さをつけていくべきである。

事件報道の賞味期限

 最近、殺人事件や事故、経済界のスキャンダル等、大きな事件が連発している。報道する側とすれば、(不謹慎な話だが)ネタが尽きなくて嬉しいかぎりかもしれない。

 だが、こんなに事件が起こると考える事がある。それは「事件報道の賞味期限はいつまでなんだろう」という事。「事件に賞味期限なんてあるわけないだろう!」と怒られてしまいそうだが、マスコミには実際にあると思う。この前までは大きく扱っていたのに、今日は見出しさえも出ないなんて事件もざらにある。実際に今日にもそんな報道は行われている。

 報道された遺族は「事件を風化させないためにも声を出し続けていく」とよく言うが、それにはメディアの力が不可欠である。よほどのインパクトがない限り、報道されなくなった事件を視聴者が覚えている事など到底ないからだ。しかし現状は違う。ニュース番組などでは、犯人探しやプライバシーを暴くだけ暴いて、事件が解決してしまえばそこで終わりである。ただ視聴者にワイドショー要素の含まれた番組を見せて、視聴者の関心を得るような番組作りしかしていない。最近では事件が解決にまで至らないものもあるが、それも同様に月日が経つごとに報道されなくなる。そして誰もが忘れてしまう。ドキュメンタリー番組で時々昔の事件を伝える番組もあるが、ニュースほどの力は無い。

 テレビはスピード、そして鮮度が命だ。だが、事件は生ものではないし、報道番組は娯楽のために見せるものでもない。最近では節目の年に再び報道される事件も出て来てはいるが、「○○事件から何年経ちました」なんて正直意味がないと思う。その事件を懐古することも大切だが、もう一度その事件について振り返り、反省と事件の経験を生かすことを視聴者に求め、訴えることが大切だと思う。客観的な報道が求められているテレビでも、一番の使命は視聴者に『伝える事』なのであるから。

テレビと他の媒体

 私は、ここ数年でメディアという媒体が複雑化されすぎて来ているように思える。少し前まではテレビはテレビ、ラジオはラジオとそれぞれの媒体にそれぞれのよさが生きていた。

 しかし近年、携帯にテレビが搭載されたり、インターネットでラジオが聴けたりと、単独で存在することが少なくなりひとつの媒体が他の媒体に吸収されている。これは、便利さを追求するが故のことだが、とても危険なことだとも思う。大げさかもしれないがなんでもひとつの媒体に他の媒体(機能)をとりいれることによって、人間はどんどん危険と隣り合わせになっていくように思える。世の中がそのひとつを中心に回ると、どうしてもそれに頼りすぎてしまう。何かあったとき、ほかにライフラインを失うのだ。なんでもある程度分散させることが大事だと思う。

 すでにテレビがパソコンという媒体に吸収されつつあると思う。パソコンテレビは大きく普及されていて、これからテレビを買おうとしている人ならこのパソコンテレビを購入する人も少なくない。私が今使っているパソコンにもテレビがついている。とても便利でこのパソコンのすぐ横においてある「テレビ」をあまり使わなくなってしまった。

 ラジオのように音だけでもない、新聞・雑誌のように文字や写真だけでもない、その両方と動画を兼ねそろえた素晴らしい存在であるテレビがその存在価値を失うことは決してないと思うが、一家に一台テレビではなく、一家に一台パソコンというのが普通になってくるのだと思う。

 自ら選んで情報を求めに行くインターネットの方が便利だと感じ、パソコンでテレビも見られる、ラジオも聴ける、新聞も読めるのだとしたらもはやこれ一台で充分になってしまう。しかしこれが定着しすぎてしまうと、このパソコンが壊れたとき何もできない状況に陥ってしまうのではないかと思うのだ。

 だから私は、それぞれがそれぞれの媒体として、個々に存在することを望ましいと思う。

過熱報道の事実

 最近気になるニュースは、やはり毎日のように報道されている『秋田小学1年殺人事件』です。

 秋田県藤里町でおきた米山豪憲くん殺しの容疑者、畠山鈴香についての各テレビ局の過熱報道に、少し前から辟易し始めました。 
 容疑者が自白する前から彼女の過去や近所の人からの評判を取材していたことには疑問を感じて仕方がありませんでした。
 「まだ犯人って確定してないじゃない?」と思っていたのですが、その前からも彼女が書いた小学校時代の作文などが報道番組に取り上げられており、やりすぎではないかと感じました。
 その後畠山容疑者が自白したことにより、気をよくした(?)マスコミは、さらに彼女の私生活にメスを入れはじめました。それはミーハー的に言えば、皆が知りたいことなのかもしれませんが、なんだか不快な情報ばかりです。
 報道番組のコメンテーターであるタレント達も心理学者ばりのコメントで、いくら容疑者とはいえど、一般人に手厳しいバッシングでした。

 もちろん殺人はいけないことです。殺人犯を許すことはできません。しかし人格を全否定する報道はいけないと思います。

 大分前になりますが、オウム真理教信者がおこした松本サリン事件の時、河野義行さんが容疑をかけられ、マスコミから大変な報道被害にあったことがありました。
 河野さんは捜査員から「お前が犯人だ、正直に言え」と強制取り調べを受けていたそうです。当時、マスコミも国民も完全に河野さん犯行説に傾いていました。無実が完全に実証されたのは河野さんの体が精神的にも肉体的にもぼろぼろになってしまった後でした。  
 その時の河野さんの心情を考えると、やはり報道番組を制作する者は、“ある程度の節度、そして思い遣り”が必要ではないかと強く思います。

テレビとCM

 テレビ離れが騒がれている中、面白いテレビ番組より面白いテレビCMが増加傾向にあるのではないか、と私は感じる。私がCM専攻であり、その生活環境からではないのか、とも考えたが、そうでもないようだ。

 LifeCardのテレビCMも最近注目されているものの一つであるが、クロスメディアの手法が使われ、ストーリーの続きがWebで見ることのできるというものである。ターゲットが20代前後といったような、若者対象であるのかと思ってはいたが、私の大変小さな統計によると、母親の友人達「おばさん世代」にもどうやら人気のようだ。
 ではなぜ、面白いと感じるCMが増え、面白いと感じるテレビ番組が減っているように感じるのか。
 テレビCMには広告代理店の競合が存在する。クライアントへ、よりよい企画を提案した会社に、制作までを任せる。コンペを勝ち取らなければ、仕事がなくなってしまう、という思いで必死に企画する。ではテレビ番組はどうであろうか。放送学科に所属していながらも、番組制作の工程を把握していないのだが、社内競合プレゼンテーションというものは行われているのであろうか?知識不足により大きな間違いがあるかもしれないが、もしそれが行われているとしたら、なぜ、面白い番組が少ない、ドラマがヒットしない、という現状になってしまうのか。
 
 そこで私は、前述した、クロスメディアに力を入れるべきであると考える。現在でも多く活用されているが、テレビ番組とインターネットとの融合である。2011年より前に、テレビ離れを防ぎ、視聴者の地上デジタル放送を有効利用できる環境作りを行っていくことが必要ではないのか。今家に存在するもので、手軽にできるよう、テレビとインターネットとの連動に力を入れ、2011年には誰もがデジタル化されたテレビにおける新機能を使いこなせるように導いておくべきであると思う。

テレビを信頼するには

 テレビ報道の授業を受けているせいもあり、テレビを考えるとなると、ニュースと報道のことが真っ先に浮かんでしまう。2011年7月のデジタル放送への完全移行は二の次だ。

 テレビの報道において、今確実に足りないものがふたつあるように思う。ひとつは、わたしたち視聴者が身につけなければいけない報道の見方。もうひとつは発信する側の配慮。根本にこのふたつがあってこそ、テレビと視聴者の信頼関係が生まれるように思う。

 「ニュースを見なさい」「新聞を読みなさい」誰もが言われたことのある言葉であろう。いつだってテレビを点ければ、明日の天気と捕まった犯人の名前がわかった。天気予報は外れるかもしれないけれど、犯人は間違いないと思っていた。ずっと、ずっと、長い間。『捕まったあの人ね、本当は犯人じゃないかもしれないんだよ』なんて誰も教えてはくれなかった。大学で学ぶようになって、なんであの時先生やまわりのオトナたちは、ニュースが100パーセント正しいわけじゃないと教えてくれなかったのだろう?などと不快な気持ちになった。しかしまわりのオトナが悪いわけではない。社会全体が「ニュースは信じるもの」としてきてしまったのだ。

 しかしこの悪い風習はこの先何年かかるとしても変えていく必要がある。そのためにひとりひとりの意識を変えていくことだ。とりあえず疑ってみること。人付き合いなどの信頼を重んじる日本には馴染みにくい考え方かもしれない。しかし時代の流れと共に変えていけるであろう。

 また、報道する側の意識の向上。テレビの力の大きさは発信している本人たちが一番よく気付いているはずだ。視聴者からの情報を頼りに作っている報道番組もある。そのチカラの大きさを権力として振りかざすのではなく、やさしさを持って送り出してほしい。やさしさ、など甘い言葉を使ってはいけないかもしれない。しかし受け取る側のことを考える思いやりこそが今の報道に必要なのではないか。

 視聴者のシビアな目があってこそ報道も柔軟な強さを持って成長していくものだと信じたい。いま思うのはそれだけだ。

放送と通信の融合

 最近USENグループが運営するGyAOが普及してきている。私がはじめてこのGyAOという言葉を聞いたのは約一年前だ。このときに比べ、今では電車内の広告やテレビのCMが確実に増えた。 今ではGyAOの登録者が980万人を突破した。

そもそもこのGyAOというのは、広告料で運営されているため、視聴者は全番組無料で見ることができるのだ。ニュースや映画、ドラマ、ドキュメンタリー、バラエティー、ニュース、アニメ、音楽など様々な番組や、GyAO専用に作られた番組もある。ワールドカップの特集や、天気など、リアルタイムの番組もあり、ほとんどテレビの情報番組と変わらない。無料ということもあり、これからもっとGyAOの視聴者が増えるだろう。

しかし、GyAOが普及することでいいことばかりではない。視聴が無料ということで、テレビを見る人間が減るのではないか。また、このGyAOの視聴者は、興味のない番組をつけっぱなしのテレビの視聴者とは異なり、自分の興味のある番組しかみようとしないだろう。そうなると、興味が偏り、若者はニュースを見ないかもしれない。教養がなくなってしまうのではないか。そして、広告料で成り立っているため、やたら同じCMが多く、途中のCMを飛ばすことができない。

私はGyAOの例より、放送と通信の融合が必ずしもいいとは限らないと思う。このような媒体を利用する場合は、十分に考えてから利用しなければいけない。テレビのように、目の前でただ座って見ているだけではなく、このような媒体の場合は、自分で選び、情報を得なければいけないからだ。

2011年にTVが死ぬ

最近、友達の間でテレビ番組の話をあまり聞かなくなった。私も実を言うと家にテレビがない。放送学科なのになぜと聞かれるが、いつのまにかテレビを見なくなったという。インターネットの大衆化でテレビは必要ではなくなったことは長い間言われ続けてきた。しかしテレビが消えたわけではない。ネットの誕生で新聞やテレビ、雑誌などが廃れて行くといった推測が立ったがどの媒体もまだ消えていない。

地上デジタル放送が2011年7月に終了する。アナログ放送が終了した時のことを考えたことがあるだろうか。現在、総務省の調べでは4000人対してアナログ放送が終了する事えを知っているのは86%、2011年に終了する事を正確に知っている人は32%、現時点での地デジ普及率は15%だ。果たしてこの調子で普及率100%に間に合うのだろうか。ある日突然テレビが見られなくなってしまったと言ったことが起こる。そして2011年以降自分のテレビが今まで通り使えなくなりデジタルに買い替えない人たちは何%いるだろうか。このままではテレビ局は大量の視聴者を失うことになる。

テレビはおもしろくなくなった。これはテレビ局の経営方針「安く面白い番組を制作する」といった全体の水準を長い年月をかけ下げて行った副作用だ。制作費の出し渋りでリッチコンテンツが生まれるわけがない。長い間お金を貸し渋った銀行と同じ因果関係にあると感じる。キャッシュフローがなければ企業は育たないといった考え方だ。テレビには「見たい」と思わせる欲求がまたほしい。極論を言うとテレビ局は一回地の底まで行き着くまで下がり続け、這い上がる変化が必要。このままでは古い官僚的体質が力のある媒体を腐らせているだけで2011年にネットに視聴者を奪われる。自分のように一回テレビを手放した人間にもう一回テレビを買わせるのは今のままでは難しい。テレビ局は自分たちの商品をもう一度見つめ直す必要がある。

視聴率と質


テレビ製作者が、番組を作ったうえで1番気になるもののひとつとして視聴率というものがある。テレビ局も一種の企業であるから、広告主に顔向けできる番組を作らなくてはいけない。その点で、視聴率を取ること、そして計ることは広告主に対して良い目安になっているといえるだろう。しかし、現在では、視聴率を取った番組が視聴者からも、とても良かったかのような風習が無意識のうちにある。多数決のようなものと似ていて、多くの人がみたものはさぞかし良かったのだろうなと、単純に思ってしまう節がある。逆に、視聴率のとれなかったものは、つまらない番組だったのだろうと何も見ていない人は認識してしまうことだってある。
私は、視聴率というものの存在はあるべきものだと思う。しかし、それは視聴者に対してではなく、あくまでも広告主に対してだ。広告は、一人でも多くの人にみせることに意義があると思うからだ。だが視聴者に対しては別であろう。番組の質は数字では表せないものだと思う。多くの番組があって、その番組の評価は、各個人でまったく違ってくるだろう。テレビは大衆的なものであるから、大衆にうけるものを作り出そうという製作者の意図もわかるし、テレビはそうであるべきなのかもしれない。しかし、製作者が視聴率というものに執着しすぎることで、テレビの可能性を狭めてしまうのではないだろうか。無意識に、大衆受けをねらった同じような番組が世の中に蔓延る。その結果、視聴者のテレビ慣れが起こり、視聴者はテレビからより遠ざかる。たくさんの人に見てもらいたいはずが、自ら視聴者を遠ざけてしまっているということもあるのではないだろうか。歴代の製作者達が、色んな冒険をおかしテレビは今ここまできた。一視聴者として、製作者、広告主の考えをまったく無視して言えば、やはりもっと上がみたい。視聴率などの枠を取り払った、斬新なものを視聴者はまだ求めているのだと思う。

寂しい時代

 最近「テレビ番組がおもしろくない」ということが私の周りでよく囁かれている。その原因はネタ切れ?視聴者が見慣れてしまった?番組の質の低下?色々考えたところで、結局は視聴者が観たい!と思う面白い番組が少なくなってきたのだと思う。

 事実私も10年前の番組のほうが何倍も面白いと思う。勢いというか、生き生きしていたというか。昔の番組には独特の泥臭さがあった。特に視聴者と制作者の距離が近かったように感じる。第二の家族のような存在とでもいうべきか。

 テレビ創世記はお茶の間でみんなで観るものがテレビだった。今はどうだろう?テレビは部屋に一台、観るときはたいてい一人。私だけではないはずだ。核家族化が進む中、同時にテレビも個人の趣向に合わせて番組が作られるようになってきた。
それが一体何を意味するのか?物事は簡単だ。テレビ局の編成は24時間になり、視聴者の番組視聴時間はバラバラになってしまった。テレビは一人で観る時代に突入してしまったのだ。同時にテレビの暖かさのようなものは消えてなくなり、それが制作者に乗り移り、いつしかテレビはおもしろくなくなってしまった。のど自慢や笑点を観ればよくわかる。番組が時代に合わせるのではなく、番組が時代を作り出さなければならないのである。いつの時代も笑点は笑点なのである。観ていると不思議と心が暖まる番組、それこそが時代を作り出す。

 しかしそんなに否定的ばかりでもいられない。私たちはテレビによって育てられたのだから。いつの時代もテレビは私たちに新しいことを教えてくれた。こんな寂しい時代だからこそ、テレビは人々に光を与える存在にならなくてはならない。
 
 ワールドカップが始まって、日本中の国民がみんな家族のように一体となってテレビに向かって応援する。実に素晴らしいことじゃないか。

兼業タレント

 最近テレビに、芸能人ではない、異業種の出演者が増えているように思います。異業種の出演者というのは、例えば弁護士や医師などの本職を持つ、いわば兼業タレントのような人のことです。

 何故このような人達がテレビに出演するようになったのでしょうか?

 要因の一つには、法律番組・健康番組の流行が挙げられます。オレオレ詐欺が出現した頃、法律への関心が急速に高まり対策番組として多くの法律番組が作られました。また、主婦層を始めとする女性を狙った様々なダイエット特集で健康番組も注目されています。当初これらの番組のコメンテーター、専門家として出演していた人達が、そのキャラクターを押し出す演出によりタレント化していった場合が考えられます。

 また、セレブがタレント化する場合もあります。ちょっと上級の暮らしをしている人を俗にセレブと呼びますが、テレビでもその暮らしぶりや言動などを取り扱う番組や特集がよく放送されています。また実際に番組の出演者として発言してもらうことで、一般人との考え方の違いや金銭感覚の違いなどを面白さとして伝える傾向もみられます。

 これらの兼業タレントは、タレントとしての教育や修行などほぼ受けていない、いわゆる素人だといえます。しかし、そこには素人の面白さがあります。作られていない素の表情や言動、行動などが、時に計算し訓練された笑いよりも面白いのです。テレビ番組でしばしば素人のコメント等をネタに笑いをとるのは、それが視聴者にうけると知っているからだと思います。また、本職のイメージとのギャップもその面白さの所以でしょう。

 これから、ますますこういった兼業タレントは増えるかもしれません。しかし、テレビという公共の場で発言することは、それが社会に与える影響を考える責任が生まれることです。そういった心構えのない人が容易に発言してはいけないし、テレビはそれができる場所に劣化してはならないと思います。

<追記>
一字下げにしていなかったので、直しました。 7/10

すでに受講生全員が書き込んだのか?

今日は6月10日であるが、すでに受講生全員が書き込んだのか?

【3】字数:800字(空白や改行マークは含まず)。行頭は一字下げ、適当な段落ごとに空白行を入れよ。

と指示してあるのに、そのようにしない者がいるのは、どうしてなんだ?

行頭は一字下げについて

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ドラマと原作

お気づきの人、気にしている人も多いかと思いますが、最近のテレビドラマは原作ものが非常に多く見られます。漫画や小説が元になってドラマ用に脚本が書かれる。私は原作もののドラマがあまり好きではありません。漫画や小説にはそれぞれの世界があり、それを映像化するというのは非常に気を使う作業であると思います。              

漫画や小説を映像にすることは空想の世界が現実に現れるのとは同時にリアルはなくなってしまうと感じるのです。たとえばH2のヒロはこんな声かな、とか世界の中心で愛を叫ぶ(あまり好きな作品ではないですが)の亜紀はこんな顔であってほしい、とか登場人物のあれこれを読者は思い描くわけです。それが実写として目の前に現れたときにそこにすんなり入れる人もいるだろう、しかしとても危険な賭けがそこにはあります。自分の好きな作品の主役を、とても嫌いなアイドルが演じたとする、その時点で私は萎えてもう今後そのドラマは見ないと思うからです。

ではなぜ原作ものが多いのか?それはまず一つに0から始める手間が省けるからです。元々ある何かの一部分を取り替えたり、上乗せするだけですぐに形になるという作業の単純化ですね。そして二つ目はある程度の視聴率が見込めるからではないでしょうか?花より男子にしても西遊記にしてもそれなりの知名度があります。西遊記のドドラマ化にいたっては、西遊記をオンタイムで知る今のお父さん世代とその子供達を視聴層に狙ったという話を聞きました。とりあえず興味を持って見てくれる人がいるだろうという自信が生まれるのですね。

しかし原作ものが多いという現状は同時に作り手の減少を示していると思います。0から作り出す脚本家が少なくなってきているそうです。確かに心にストレートに届くドラマというものを最近見ていない気がします。これは実に寂しいことです。また「名作」と言われるドラマの出現を願います。

すいません

パソコンの調子が悪くて書き込みが出来ませんでした。
直りましたので遅ればせながら論文を書き込みます。すいません。

地上デジタル放送について

 遅ればせながら小論文を書かせていただきます。自分の怠慢のため提出期限の二週間後に小論文の事を聞き、半ばあきらめていましたが、やはりどうしても単位が欲しい!何としても単位が欲しい!ということで今さらながら書き込ませていただきます。
 ちゃんと期限までに提出した方々、坂本先生には大変ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございませんでした。私自身、次の週のブログ担当ということで、心を入れかえ死ぬ気で頑張りたいと思います。
 さて小論文ですが、私は地上デジタル放送について述べたいと思います。
 二〇〇一年から現在の地上アナログ放送が終了し、地上デジタル放送が開始される。地上デジタル放送には今までなかった様々な機能があるが特に注目すべきはこの二つ。
1、 高画質、高音質。
2、 双方向機能。
 まず1についてであるが、果たして国民がテレビの映像と音の質に対して、それほど重要視するのか疑問に思う。
 私の周りの知人の間でも映像と音の質に関して言えば、今のテレビのままでもよいというのが大多数だ。
 またBSデジタル放送受信機の出荷台数がまる三年(二〇〇〇年六月~二〇〇三年六月)で二一四万台(むろん一般家庭への普及台数はこれより少なく二〇〇万台以下)しかなかったことも、高画質・高音質テレビのニーズが小さいことを示す。
 そのうちハイテレビジョン、プラズマテレビの数は合計で約一三二万台。これらを買った人は明白に高画質を買った人だが、その数は年約五○万人に満たない。
 以上の点から、多くの人はあまり高画質、高音質に興味が無いといえる。
また双方向機能があるが、この機能は視聴者にとってたいへん画期的であるといえる。視聴者の意見を番組に反映でき、番組が更に面白くなる可能性がある。
 しかしそれはあくまで可能性であり、一番重要なことは製作者側の番組に対する姿勢である。現在テレビ離れが叫ばれているが、その理由として、「番組がつまらない」(もしくはネットの普及)が挙げられる。映像がきれいでも番組が面白くなければ視聴者は離れていく。番組製作者のアイディアや工夫だけでデジタル放送であらずとも番組はいくらでも面白くなるのではないのだろうか。双方向機能がなくとも意見や要望は手紙や電話、ネットでも出来ることだ。
 これまで述べてきたように地上デジタルの必要性に疑問を感じざるをえない。放送開始まであと五年。テレビは新たな過渡期を迎えようとしている。

*勝手ながら坂本先生のサイトの論説の情報を参考にさせていただきました。断りもなく申し訳ありません。

ヒマなときでよいから

人の文章のパクリは認められない。パクるときは、パクッたことが絶対にバレないようにしなければならない。

ヒマなとき(8月いっぱい)でよいから、自分の★★★オリジナルの論考★★★をもう1本書きなさい。「やはりどうしても単位が欲しい!何としても単位が欲しい!」ならば、それを条件とする。

ではヒマなときに

 了解しました。「やはりどうしても単位が欲しい!何としても単位が欲しい!」ので八月中に書きたいと思います。
 ただでさえ期間を延ばしてもらっているので、できるだけ早めに書きたいと思います。ありがとうございます。

マスコミの政府批判

 遅ればせながら小論文を書かせていただきたいと思います。すみません。坂本先生からは八月いっぱいまでと言われましたが、ほんとに八月いっぱいになりました。

 さて、七月にブログを担当してからというものニュース報道に対して、疑う癖がつきました。ニュースを見ながらコメンテーターの意見に対してツッコミを入れながら見たり、新聞などを見るにしても報じる側の立場などによって大きく見方が違うことがあるので、他の新聞と見比べてみたり、ニュースの中の客観的事実と解釈の部分を分けて考えたりなど、報道に振り回されない為に上のことを意識しながら見るようにしてきました。

 そこで思ったことですが、最近外交関係に関する報道で批判的なものが多すぎるのではないかということです。私は思います。

 かつて戦時中の大本営発表や現在の北朝鮮のような政府・軍部よりの報道ではなく、政府の監視役として日本の政治を常に批判的に見ようとする日本の報道の姿勢を、始めは評価していたのですが、批判的でありすぎるように思えてきました。批判的になること自体悪いことではないと思います。ただ、あまりにも批判的であり過ぎることに問題があると思うのです。

 殆どのマスコミはアジア外交は行き詰まっていて日本は孤立している、だからアジアを重視しろ、と盛んに発言しています。キャスターをはじめコメンテーターも参拝反対の人ばかりが出てコメントしているのをみるととても違和感があります。また、アンケート調査で賛成派が多いという結果になったにもかかわらず反対派に焦点を当てた報道をしていたこともありました。

 マスコミ側は自分たちの都合によいように世論を誘導しようとします。その偏向報道・無責任な報道に踊らされる私たち視聴者にも責任があるのかもしれません。

 インターネットはそんなマスコミ報道に一石を投じるような存在になりえると思います。インターネットの情報の多様性・情報量はテレビ・新聞報道に勝るものです。さまざまな情報を多角的な視点で捉え、吟味することが可能ですし、チャットやブログなどでいろんな意見をぶつけ合うことで、新たな考えを学ぶこともできます。

 情報量が多くて視聴者が混乱することがあったり、自分で情報を取捨選択できるため、興味のない報道には見向きもしない場合もあると思いますが、確かなものを掴める強さや,多方面の意見を受け入れ、考える力を身につけることができると思います。

*1000字を超えた為800字以内になるよう修正を加えました。

なんで1000字?

正留英一の「小論文」は約1000字ある。

【3】字数:800字(空白や改行マークは含まず)。行頭は一字下げ、 適当な段落ごとに空白行を入れよ。

と書いてあるのに、なぜ200字もオーバーするのか。私には到底理解できない。800字と要求されたら、800字を超えない範囲で、なるべく800字に近づける(750字とか785文字とか)のは「常識」だと思うが、違うのか?

すみません。

 完全に自分のミスです。すみませんでした。基本的なことを間違ってしまいました。ご迷惑をおかけして本当にすみません。

 何度もわがままを言うようで申し上げにくいのですが、できれば明日までに再度推敲し800字まで削る、もしくは明日までに新しく小論文を書き直すことで提出という形にしていただけないでしょうか?

好きにしろ

好きにしろ

修正します。

はい、では修正させていただきたいと思います。すみませんでした。

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日本大学藝術学部放送学科

●このブログは、日本大学藝術学部(日芸またはNGと略)放送学科の授業の一環として設置しています。学外の方も自由に閲覧やコメントしていただけます。学生らの活動を厳しく、ただし温かく見守っていただければ幸いです。学生には「ブログ炎上も授業のうち」といってあります。

●ブログ開設は2006年ですが、1999年からマスコミ演習、マスコミII、放送特殊研究Vといった授業を担当しており、2005年以前のレジュメなど古いものも置いてあります。(坂本 衛)
 

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