テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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民族の祭典(オリンピア第一部)つづき 2010-05-28

【5月28日は前回のつづき】

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『民族の祭典(オリンピア第一部)/FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I』
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●時間があれば、レニ・リーフェンシュタールの出世作『意志の勝利』(1935)を見せる。史上最悪の、ということは史上もっとも成功した宣伝映画、プロパガンダ映画の一つ。映画で使ったテクニックを『民族の祭典』でも多用しているとわかる。あとレニ監督・主演の劇映画『青の光』(1932)とか。
意志の勝利
青の光

【コメント記入者へ注意】
●コメントには、気の利いたタイトルをつけなさい。本でいえば背表紙だ。「自己紹介」なんてつまんないタイトルをつけるんじゃない!

●「記入が遅れてすみません」なんてくだらん言い訳も不要。遅れれば遅れるほど成績に響くだけの話。君らペーパーテストを出すとき「出来が悪くてすみません」って名前の脇に書くか? 書かないだろ。

●「このサイトにたどりつくのに時間がかかった」という類の言葉も、「Googleに『テレビ報道』と入れろ」と繰り返し伝えた注意を聞いておらず、検索技術もサイテーとを示すだけだから不要。GoogleやYahoo!に「放送特殊研究」と入れるだけで当サイトがトップに出るのに、なぜたどりつかんのだ? 坂本は、放送局の連中よりはるかに高度な技術を駆使し、時間もかけて、Googleに「テレビ報道」と入れたとき500万件中1位と2位に表示するサイトを作った。見つけるのに時間がかかったって? 作るのに何時間かかったと思う?

コメント

自由すぎる演出で作り上げる人間の肉体美

ベルリン五輪で有名な「棒高跳び」は、BGMがまさに「挑戦する男たち」のイメージに合っていました。
選手の顔が映っていない、跳ぶ瞬間に急に静まる観客席、皆が息を呑んで見つめる、という演出が印象的です。
5時間も競技が続いたということにも驚きですが、選手たちに競技を再現してもらっていたという事実に度肝を抜かれました。
この事実を知り、カメラアングルが芸術的であったことにも納得できます。

400メートルリレーを見て、走る速度が異常に速かったことを疑問に思っていました。
やはり、編集でクイックにしており、巧みな演出に騙されました。

1600メートルリレーでは、どういう意図なのかわからない演出がありました。
アンカーがラストの直線に入ったとき、1位と2位が競っているにもかかわらず、1位の選手ばかりを映し、2位の選手は全く画面に入っていません。
普通なら、競い合う両者を映すはずであるのに、1人だけ映したのではどれだけの差がついてゴールしたのかわかりません。
そこが見たかったのに、と思ってしまいました。

最後のマラソンも、肉体美を見せる演出であり、選手の顔が切れている映像が多く見受けられます。
突然、上半身裸の男性に映像が変わったときは目が点になりました。
そして、選手目線の映像。走っている自分自身の手や脚を映しています。
これも選手に再現してもらったそうですが、肉体美を強調するための監督の自由な表現方法には脱帽します。

この作品は、オリンピックの記録映画であり、そうではない。
何にも拘束されることなく、監督が自由に、思うままにイメージし、表現した肉体美の記録であると思いました。

ハーケンクロイツ

この映画はまさしく、ハーケンクロイツそのものであるといっていい。仏教の卍、キリスト教の十字架、ナチスドイツのハーケンクロイツはどれも基本形態を十の字においている点で同一である。つまりは、そもそもTの字とIが合成されたもので、それぞれ女陰と男根を示し、十の字は陰と陽の婚姻、結合を表現するものであり、生命の誕生の象徴である。この映画は冒頭、彫刻が生身の人間に置き代わるシーンからも分かるように非常に「肉」に固執している。そう、肉体に、生命力に。当時の技術で何とか臨場感を出そうとしているのも、やたら筋肉のクローズアップが多いのも、マラソン選手の駆けている脚を選手が見下ろしたかのように別撮、編集しているのも、ドイツ、属国の生の讃歌に基づくものと思う。ナチス信者の生の讃歌、オリンピア。ハーケンクロイツを当時掲げていたドイツにふさわしい映画である。

現代における「スポーツ」

オリンピアの映像を見ているとき、先生から「顔ではなく体中心に映している」と言ったヒントをいただきました。確かに、顔が見切れてもお構いなし、画面の中心はほぼ肉体です。「顔に興味がない」という先生の言うとおり、当時の人々はスポーツをスポーツのまま楽しんでいたんだと思います。
しかし、現代はというと何をするにも顔が付いて回ります。「イケメン選手」「美女アスリート」。この単語は大きなスポーツの大会には必ずと言っていいほど付きまといます。実際、私は今年のバンクーバーオリンピックの映像にキャプションを付ける仕事をして、「選手が美男or美女だったらそう書いといて」と指導されました。確かに、そういう特集をワイドショーでするとあまりスポーツに興味がなかった人々にまで関心を持たせることは可能です。しかし、やはりスポーツはまず肉体であるべきだと私は思います。そう考えるとスポーツのとらえ方は映像当時の方が芯を通していたのではないのでしょうか。

創作の力は単純記録を越えるか

上記の中竹さんと同じように、「棒高跳び」が再現映像だったという点には
驚かされました。そもそも僕達のようなカラー映像世代は、なんとなく
白黒時代の映像を若干下めに見る傾向があると思うのですが、
それにしたってリテイクが必要な部分を切り捨てず、わざわざ競技を
もう一度やるという事自体、発想のスケールが違いすぎると思いました。

確かに、この作品に現在のスポーツの撮り方がほとんど出てくるという
ふれ込み通り、一部の過剰演出を除けば、ほぼ現代の撮り方と遜色ない
ものでした。今と大して変わらないということは、それだけ当時の技法、
というより、レニのセンスが洗練されていたということであり、
その事実にも驚かされます。

導入部のイメージ優先映像でのディゾルブ多用やら、要所でのスロー、
こういった手法も含め、この作品が記録か芸術かと問われれば
僕は確実に芸術作品だと思うのですが、この作品に作為が介入しなければここまで人の印象に残ることもなく、史的価値も半減したのでは
ないでしょうか。結果的には、民芸の祭典は記録映像としても
十分すぎる程の成果を出しているのではないかと思いました。

音から見た映像

少々この映画、と言うより映像からは別の観点として私は音を中心にこの作品を鑑賞していました。

そもそもオープニングからして映像を上手く生かす音、むしろ音を上手く生かす映像だったと思います。
オープニングやエンディングが音楽を基軸として映像を動かしているのは見ていれば何となくでも分かると思いますが、この作品は選手の一挙手一投足が演奏をしているかのような、非常に自然で魅力的な作品だと感じました。

恐らく、これが無声映画だったら同じように作っても評価はこれほどまで高くなかったと思います。

先生は何度もこの映像が後から作った演出だとおっしゃりましたが、私も映像からではなく音からその点のいくつかは気付きました。
例えば「大江」や「西田」コールは日本人じゃないのも混じってる気がしましたし、もっと根本的なことだと投射物が地面に着く瞬間に記録が読み上げられたり。

音と関連して気になった点としては特に後半、棒高跳びあたりからの字幕が酷かったのは特に気になりました。
日本代表の扱い方もそうですが、実況の意味の極端で微妙な簡略が目立った気がします。


ただ、これほどまで上手く音を、音で演出できている作品は現代でもそうそうお目にかかったことがありません。

そういった意味から、素晴らしい作品だと感銘を受けました。

秋田尭律の主張に異論あり

> 仏教の卍、キリスト教の十字架、ナチスドイツのハーケンクロイツはどれも基本形態を十の字においている点で同一である。(秋田尭律)

それは秋田の考えなの? それともほかに誰か、そう主張している人がある? まんじ(寺)、逆まんじ(鉤十字、ナチ)、十字(キリスト教)、それから漢字の十、正符号(プラス記号)の+なんかも、同一といえる? X(エックス)や×(バツ)も、同一か?

> つまりは、そもそもTの字とIが合成されたもので、それぞれ女陰と男根を示し、十の字は陰と陽の婚姻、結合を表現するものであり、生命の誕生の象徴である。(秋田尭律)

それは秋田の考えなの? それともほかに誰か、そう主張している人がある? 「人類は、すべての文化・歴史において、Tの字(T型の記号)が登場する以前には、+型の記号を一切持たなかった」という、文化人類学の定説があるの? 私は「そんなものはない」と思う。だって楔《くさび》形文字に十字型の記号があるからだよ。

仏教・キリスト教・T字とI字(アルファベットまたはそのもとになった地中海起源の文字)が登場する以前に、十字型の記号(文字)が存在した以上、「十字型はT字とI字の合成である」なんて与太話が、成立するはずがないだろ。違うか?

T字の上にOが載っている「輪付き十字架」のOが女性、Tが積極性・生命を生むもの・英知などを表し、全体として両性具有、生命、結合するものなどを象徴するという説はある(たとえば『イメージシンボル事典』crossの項参照)。しかし、十字のものは全部それだという説を、私は知らない。主唱者は誰? また、その主張の根拠は?

すぐ上のコメントの続き

で、十字型全部ではないにせよ、少なくともハーケンクロイツというマークが生命の象徴だとして、この映画は、そんなハーケンクロイツを掲げるドイツならではの、「ナチス信者の生の讃歌」だと秋田はいう。

しかし、レニ・リーフェンシュタールはナチ信者かね? 自分で「ヒトラーに熱狂していた」と語る通り、ナチ協力者だとは思うが、ナチスにも入党していないし、信者といえる? また、レニはヒトラーその他から「製作方針に口を出さない」という約束を取り付けていたとされ、何でもかんでもナチの好きなように撮ったわけではない。肉体への興味や生の讃歌は、むしろ、レニの(個人的な)趣味や嗜好に強く関係する事柄だろうと思うが、どうかな?

シンボル論

十字形を基本とするものがT字とIの字に分解でき、それを性の結合イメージに結びつけるというシンボル論、それを主張する記述に関してはそれを揚げると枚挙にいとまがないので、わざわざどの本がどうこう、とはいいませんが、
我が家のじいさんから聞いた話ですから、現代の主論かどうかは定かではありません。「世界のシンボル集なんたら」みたいな本を読めば大体書かれているのでその辺はどうぞご自分で他の本もご参照される事をお勧めいたします。
ちなみにTの字とIの字と表記したのは、正確にはT字状のものとIの字状のことについて書いたのであって、言語成立以前に云々というのは全くの誤解です。
ちなみに、キリスト教については、元来魚のシンボルを信仰の対象としていたわけで、十字架を信仰にするに至ったのには異文化の流入が影響したのではないかというのが私の持論です。つまり、もともとあった土着的な卍状の、あるいは、それに似たシンボルをもった文化に触れ、キリスト教徒の、それまで忌み嫌っていた十字架のイメージを信仰のシンボルに昇華させたのではないかと思うのです。というのも、キリスト教は十字架を宗教シンボルとしてからも、地域によって十字架が馴染めない地域に関しては、十字架に似た要素があれば、それまで信仰していたシンボルに近しいものでも構わないといったスタイルをとっているのです。
たとえば、X字型の十字架、碇の形、などがその例に挙げられます。
これらは記号として生まれたのではなく象徴として生まれたものですから、プラスやなにかの記号といっしょくたにするのは先の語弊が生んだ誤解でしょう。
もっとも、現代科学の礎となった錬金術では物質のシンボルを女性原理、男性原理に基づいて解釈してたわけですから
まんざら、プラスやなにかにシンボル性が無いわけでもないでしょうが、その意味合いは希薄でしょうね。

で、ハーケンクロイツですが、これに関してはヒットラーがオカルトに凝っていたとかなんとか、諸説ありますが、それも全部が全部嘘ではないような気がします。ケルトの伝統的な
記号に鍵爪のついたサークルがありますし、日本では卍、南米の神「ケツァコアトル(ククルカン)」はウロボロスの蛇に鍵状の羽毛が描かれたような格好をしています。全国共通の
生命観、シンボルとして、ヒットラーがこの形状を選んだとしても不思議はないかと思われます。


特にこの映画を観て、ドイツならではとも、レ二をナチ信者ともなんとも思いませんが、ハーケンクロイツのシンボル観から映画を見ると、生命の賛歌(オリンピック)とか、レ二の肉体好き、ってものとハーケンクロイツはなんか相性が良くみえるなあ。てな感想を抱いてしまったわけです。
文章力不足で語弊を生んでしまったようで申し訳なく思います。


T字にOの字はエジプトを中心に使用されたアンクですね。

たしかに相性よく見える。

> 現代の主論かどうかは定かではありません。

そう。棒状が「必ず」男性器の象徴で、T型が「必ず」女性器の象徴で、十字型が「必ず」以上二つの合成であるなんて説は、根拠が薄弱すぎる(そうかもしれんが、そうでないかもしれん)から、断定調で書かないほうがよいだろうね。

> 言語成立以前に云々というのは全くの誤解です。

日本語の使い方がおかしい。私は秋田の書いたことを「誤解せず」文字通り受け取って、与太話と書いた。

> ハーケンクロイツはなんか相性が良くみえるなあ。てな感想

たしかに相性よく見える。だが、ナチのシンボルが三角でも丸だったとしても、レニはあんな感じの、生や肉体讃歌の映画を撮ったんじゃないだろうかね、てのが坂本の感想。

細部にこだわりあり

冒頭部にオリンピックの理念やルーツを、言葉による補完なしに映像だけで表現していたのがとても印象的だった。「芸術的」な映像だったのでテンポも悪く、間延びした感じだったが、挑戦的に試みられている競技中のわかりにくい監督の意図的な表現よりは明確にズシッと伝わってきた。

肉体美

面白いくらい体が多く映っていましたね。
このころの選手はこのために
体を鍛えぬかなければならなかったのでは??

今ではイケメンが持て囃される時代。
選手も選手で時代によって
やることが違って大変かもしれないですね。

どこかでみたことが・・・

マラソンの映像のとき、1位の表彰台にあがるソン・ナム選手をどこかで見たことあるなぁ・・・と思ったら、高校生の時日本史の教科書で見たことがあり、この件について習っていました!
まさか教科書で見た人物を映像で見るとは・・・
教科書のソン・ナム選手の写真はあまり鮮明ではなかったのを覚えています。
なので、映像で見た1位の表彰台に立っていてもうつむき加減の様子を映像で見ると、
日本人として扱われている悔しさが切に伝わってきました。

全体的な感想としては「映像で伝えよう」という意識が強いなと思いました。

近年のオリンピックと比べて

前半を見ていたときもだいぶ違うところがあったんですが、今は体育館で行っているあん馬を外でやっていたり、棒高跳びの棒の持ち方が垂直持ちじゃなかったり、マラソンの給水所で立ち止まって顔をスポンジでぬぐっていたりと、今と比べて人々の体力の差があって、持ち方やマラソンのスタイルなどに変化があるのかな、と思いました。

また、マラソンで金メダルと銅メダルをとった2人が、メダルをとったにも関わらず少し表情がうつむき加減だったのが印象的でした。

想像以上

鑑賞前に勝手に想像していたのとまったく違う作品で驚きました。

今のスポーツ中継のダイジェスト版のようなものを想像していましたが、躍動感溢れる選手の動きの迫力に圧倒されました。
音楽も秀逸で、観ている人を飽きさせない要因になっていたと思います。

記録より芸術

前編にみた導入の長さや再現撮り、筋肉をみせていく演出等、オリンピックよりも作品を通して演出、技術からの芸術をみせたかったのだろうなと感じました。

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●ブログ開設は2006年ですが、1999年からマスコミ演習、マスコミII、放送特殊研究Vといった授業を担当しており、2005年以前のレジュメなど古いものも置いてあります。(坂本 衛)
 

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