テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

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開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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民族の祭典(オリンピア第1部)/FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I その1 090522 2009-05-15

●民族の祭典(オリンピア第1部)/FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I

●ドイツ、1938年(ヴェネツィア国際映画祭金賞)

●監督:レニ・リーフェンシュタール

●撮影:ウィディ・ジールケ、 ハンス・エルトル 、ワルター・フレンツ、グツィ・ランチェナー、クルト・ノイバート、ハンス・ミシャイブ

●音楽:ヘルベルト・ヴィント

●138分

●1936年オリンピック・ベルリン大会の記録映画。その第1部。
「美の祭典」と合わせて「オリンピア二部作」をなす。

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 前回(5月15日授業)までに戦前(太平洋戦争前)の日本の国策映画をいくつか見た。また前回、江戸末期から太平洋戦争に至る日本の近代史をムチャクチャ駆け足で概観した。

 そのなかで第一次大戦後の国際秩序のキーワードとしてヴェルサイユ体制(欧州)とワシントン体制(太平洋・アジア)というキーワードを出した。これを推進する側と不満だった側が、欧州と太平洋・アジアで戦争をしたわけだ。そこで欧州で戦った代表選手・ドイツの国策映画を見よう。

 ある放送評論家と話していたら、この映画を「ナチスの宣伝映画・国策映画。話にならない」と切り捨てていた。私(坂本)は、決してそのようには切り捨てない。

 宣伝映画・国策映画であっても、映画史を切り拓く斬新な表現、映画史に残る美しい表現がありうるし、それは人びとを素直に感動させる力を持つと私は思う。それこそが映像の力なのだから、無視してはならない。話はまったく逆で、このような映像こそ研究し、学ぶべきだと信じる。

 この映画には、いわゆる「やらせ」「過剰な演出」「効果」「再現」などがふんだんに盛り込まれている。当然、「ドキュメンタリー」の名に値するかという議論もある。だから、どんな手法が盛り込まれているか、まず、注意深く見てほしい。議論はそれからだ。【坂本 衛】

コメント

最初の演出

タイトルが出てからオリンピック本編に行くまでのプロローグが長く感じました。よっぽど気合いを入れて作った作品だったんですね。オープニングの女のひと達はセクシーだったけど。

競技のほうは「ああ、日本人はまだまだなのね・・・」と感じました。アスリートが伸びる時代ではなかったんでしょうね。

祖国のために

ナレーションの中で、盛んに叫ばれていて気になったのが
「祖国のために…」という言葉でした。
今のオリンピックでは、これ程までに祖国のためにやっているかと言われれば、個人のためという思いが強いと思います。だからと言って今がどうというわけではないが、当時は個人の考えよりも、まず第一に国家があったと思います。

それと演出で、男子一万メートルの最中に、カメラがランナーの足元の影にズームアップした場面がありましたが、以前に見た学徒出陣の水たまりに映る足元を思い出しました。

ヤラセ

全てがヤラセに見えてしまいわざとらしく感じました。
国のために作ったからなのかと言うところまでは判りませんが、都合の良いようにつくられている気がしました

再現もまた記録?

ハードル走のシーン、スタートラインの後方に設置されたカメラでスタートからゴールまで追ってしまう映像があったのですが、この部分に現代のスポーツ中継の先駆けとなるようなセンスを感じました。後方からの映像だと、順位や差が全く分かりません。これでは「記録」映像にならないのですが、あっという間に選手が走り去ってしまうスピード感が表現され、映像「それ自体」の面白さがあるように思えました。

棒高跳びやマラソンのシーンなど、記録映画に関わらず「やらせ」に当たる映像や音声が多く散りばめられていたことについては、あまり違和感を感じませんでしたし、むしろ、映像によっては「やらせ」をしてでも撮影して良かったのではないかと思いました。

棒高跳びを例に挙げると、カメラの感度の問題で撮り直しをしたのでしょうが、いくら再現であっても、競技をする人、場所は同じです。いま、半世紀以上経ってこの映像を見るとき、競技の佳境の部分がまったく見ることが出来ないのと、それに近い映像を見られるのとでは、「記録」という意味で映像の価値が大きく違ってくると思います。「やらせ」だと知って見る限りでは、再現や演出も含めて貴重な「記録」として楽しめました。


日本人選手として出場させられた孫選手と同様、黒人選手のオーエンス選手も人種差別で苦しい思いをしたことでしょう。ヒトラーが企画した「平和の祭典」は、何から何まで臭いものに蓋をした「平和」であったように思いました。

2つのオリンピックを比べた

先週・先々週とこの授業で「東京オリンピック」(←東京じゃなかったらごめんなさい。)の映像を見せていただいので、それと少し比較しました。

まず思ったことが、「民族の祭典」のカラーバージョンが「東京オリンピック」だなということ。つまり、民族の祭典が、大会の撮影方法のほぼすべてを築き上げたということです。この点は先生もおっしゃっていましたが、比べて観て納得しました。

ところどころに存在するヤラセ映像ですが、私は指摘されるまで気がつきませんでした。でも考えてみたら、ヤラセ映像の部分は、他よりも少しだけ丁寧に撮影されたものだったと思います。

日本人が活躍していて嬉しい!と思った反面、その日本人らしからぬ選手の名前を聞き、歴史の背景について考えました。競技を終えた後の彼の曇った表情は、競技結果だけでなく、出場の経緯にもあったと思います。

戦争を感じるオリンピック

私も「祖国のために」というナレーションが耳に残りました。
今は、競技を放送する番組の宣伝のため、選手の大きな写真が駅ビルに張り出されたり、CMにキャラクターに選手が起用されたりと、商業的な目的で、選手が注目されている印象がある。しかし、映像で記録されている時代は、違った。国が重要視されている。そして、それは戦争を感じさせた。

マラソンの場面で、一人の選手の走る姿を、正面から、サイドから、後ろから撮り続ける、やや長いカットがある。その撮影技法は、私は、現代のドラマを感じさせるものだったように思う。

これ、本当につくられてるんですか?

なかなかに興味深いものでした。ナチスかだろうとなにだろうと、学ぶものは大いにおりますね。先生のご判断に感謝です。
いや、先生のおっしゃったとおりやらせの部分はむちゃなアングルだったりするわけですが、現代の素晴らしい技術をもって撮影したものになれた私は、「ああこんなもんか」と誤解してみてしまいました。

来年も見ますか?

すばらしい映像

この作品は1930年代に作られたとは信じがたいほど完成度が高かった。とくにカット割りや撮影のアングルが斬新で今の映像と比べても見劣りしませんでした。当時の最新の技術を使って撮った作品だということが伝わってきます。

ヤラセとも言えますが素晴らしい演出とも言えます。

日本人が活躍するシーンは戦争での国同士の関係とは別に単純にうれしかった。

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●ブログ開設は2006年ですが、1999年からマスコミ演習、マスコミII、放送特殊研究Vといった授業を担当しており、2005年以前のレジュメなど古いものも置いてあります。(坂本 衛)
 

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