テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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夜と霧/NUIT ET BROUILLARD 2008-06-13

●夜と霧/NUIT ET BROUILLARD

●1951年、フランス(ジャン・ヴィゴ賞、フランス映画大賞受賞)

●製作:アナトール・ドーマン

●監督:アラン・レネ

●脚本:ジャン・ケイヨール(解説台本)ほか

●撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニー

●考証:アンドレ・ミシェル、オルガ・ウォムセ

●32分

●ナレーション:ミシェル・ブーケ

●音楽:ハンス・アイスラー

●第二次世界大戦中、ヒトラー率いるナチス・ドイツは、600万人のユダヤ人を殺した。このジェノサイド(集団殺戮、民族浄化)、ホロコースト([とくにユダヤ人の]大虐殺)を淡々と告発するドキュメンタリー。日本における初公開時には、生首や死体の山の映像が残虐すぎるとしてカットされた。

NUIT ET BROUILLARD

※8分割されているが、同じ場所から全編を見ることができる。
※坂本が持っているDVD(日本語字幕付き)が、見つからないので、とりあえずこれで我慢してくれ。

●授業で坂本が言ったこと
「人間というのは、ここまでしょうもないことをやれるんだと、よく見ておきなさい。で、私はアウシュビッツを作ったヤツと、広島・長崎に原爆を落としたヤツは、五十歩百歩だと思う。私のオヤジ、君らのお祖父さんの世代の日本人は、こういうことをやっていたドイツ人と世界中でいちばん仲良しで、同じ陣営の味方としてこの前の大戦争を戦ったのだということも、忘れないでくれ」(授業で)

以下、「すべてを疑え!! MAMO's Site」日録メモ風の更新情報2005年7月29日付記事(一部修正あり)
●ひっちゃかめっちゃかな部屋を片付けていると、仏ドキュメンタリー映画「夜と霧」(監督アラン・レネ 脚本ジャン・ケロール 語りミシェル・ブーケ 1955年 32分)のビデオが出てきたので、つい見入ってしまう
●何もいうことはない。言葉を失う映像ですから。この映画に記録されたことをやったナチスドイツと組んで、私たちの国・日本が世界の5分の4と戦ったことは、何度でも思い出したほうがよい。とりわけテレビや映画をはじめ映像に関わる人は、見ておくべきです(日大の学生諸君の多くが未見なら、今度見せる)。映画の最後で語られる言葉は、何度聞いても私自身の問題として考えさせられます。以下に引用させてもらいます(どの程度、正確な訳なのかは知りません。字幕スーパーそのままです)。
●「我々の中のだれが戦争を警戒し知らせるのか。次の戦争を防げるのか。いまもカポが将校が密告者が隣にいる。信じる人。信じない人。廃墟の中に死んだ怪物を見つめる我々は、遠ざかる映像の前で希望が回復したふりをする。ある国のある時期の話と言い聞かせ、絶え間ない悲鳴に耳を貸さぬ我々がいる」(仏映画「夜と霧」より)
●遠ざかる映像!!――そう、現実のほんの一瞬、一部分だけを切り取った映像は、事実や真実をほんのちょっぴり含む場合がありうる。しかし、その映像は、自分で勝手にどこか遠くに歩いていくのではない。私たちが、放置し、やがて忘れ、映像から遠ざかるのです。NHKの解説委員長だった山室英男は、何年か前のGALACの座談会で「9・11で旅客機がタワーに突っ込む瞬間の映像を、大きく引き延ばし掲げている。それを見ていると……」と語ってくれたことがある。私は「瞬間瞬間に消えていく映像を静止画にして、いつも見えるところにおく。それはテレビのとてもよい見方ですね」と応じました
●蛇足をいくつか。「カポ」とはアウシュビッツなどの収容所で、ドイツ軍が収容者を監督させるために使ったユダヤ人(収容者の一部)やドイツの囚人のこと。脚本のジャン・ケロールはレジスタンスの闘士で収容所経験もある作家・詩人。彼が1945年に書いた「夜と霧の詩篇」が映画の原作といってよいでしょう。なお、この映画は1956 年(昭和31年)に輸入が試みられましたが「あまりにも残虐」として税関で止められ、製作7年後の1962年に1分弱のシーンを削除のうえようやく日本公開されました。最近、CSのシネフィル・イマジカでやっているのを見たら、当時の削除シーンはちゃんと入っています

●参考
ホロコースト(Wikipedia)

コメント

ナチスだけが悪いのか

私が日芸に入学を希望する大きなきっかけとなった映画が、
本作品と同様にユダヤでの大量虐殺をテーマとした
「SHOAH(ショアー)」というドキュメンタリーでした。

上映時間も演出も本作品とは相反しておりますが、
「夜と霧」を見て、再び瞬きができない程の、初めて
ショアーを見た時のような衝撃と、映像の力を再確認することになりました。

物語が進行するにつれて残虐なシーンが増えていきますが、
だんだんと気持ちが悪いという気持ちが消え、
目を背けてはいけないという、ある種の使命感が
私の中で生まれたことは驚きでした。皆さんはこの映像を、どのように見ましたか?


ヒットラーの虐殺行動の根本的な目的は、
「人間に、一度、戦争という行為の愚かさを、とことん教えておく必要が、
この時期にある。だから、私は、戦争、差別、虐殺などを行う。」
ということで、つまりは理不尽な見せしめのためだけにあれだけの虐殺を行ったわけです。
それは心理作用を計算しつくした計画だったのでしょう。
仲間意識、優越感、恐怖感、崇拝意識・・・その辺りをうまく利用したのです。
ヒットラーは賢い。おそらくこのような虐殺行為をしなければ
世界一の統率者に成り得たのかもしれません。
しかし、このナチスの愚行は今なお決して許されるはずは無く、
ドイツ人にとって歴史を語る上で避けては通れない事実なのだと思います。

ただ、ヒットラーだから、ドイツだからこのような事件が起こったのかと言えば、
私は決してそうではないと思っています。
どの国も、どんな民族も、ドイツに、ヒットラーに成り得たのではないでしょうか。
つまり、戦争という環境下で、周りの圧力や誰が見方で誰が敵なのかも定かでない
微妙な駆け引きの中で正常な精神を保つことは難しく、
人間的な思考が出来なくなってしまうことはあると思うのです。

決してヒットラーの肩を持つわけではありません。
ただ、現に虐殺の歴史を持つ国は他にも多々存在しています。
その度合いが激しかったドイツを、野蛮で、気が狂っているとは
言えないのではないかということです。

「夜と霧」というタイトルは
〝夜陰に乗じ、霧に紛れて人々が連れ去られ消された歴史的暗部を比喩した〟
ということですが、似たように、ドイツのヒットラーを盾にして
他国が責任逃れしてはいけないのではないでしょうか。

大変表面的な部分だけで話を進めてしまいましたが、
何か思うことがあればコメント下さい。


最後に、冒頭で登場した「ショアー」ですが、
上映時間は約9時間。ドキュメンタリの通例に反して
記録映像や説明のナレーションを全く用いておらず、
生存者のインタビューですべてが構成されています。
はじめは頑なに口を閉ざしていた生存者たちが次第にポツリポツリと話し出す内容は、
非常に重みがあるものです。
本作品とはまた異なる意味で、忘れられない映画になることと思います。
興味がある方はこの夏休み、是非見てみて下さい。


【茂木 彩海】

責任転嫁の連鎖

初めて観た時思わず言葉を失った。

残虐なシーンのせいではなく、それを行ったのが同じ人間だという事実のためだ。

人を人として扱わない。

最初から人じゃないかのように平気で殺す。

殺した後もこれはただの物なんだよ、とでもいうように無造作に積み上げ、首を切って晒したり、窯に放り込んでいく。

毛布かと思ったものは囚人達から引き抜かれた毛髪だった。

あまりにも多すぎるために最後はブルドーザーでまとめて穴へと落とされていく死体。


これを実際に行ったのはナチス・ドイツだ。
諸悪の根源は命令したヒットラーなのかと思えばそうではない。

虐殺には虐殺された側の人間も一緒になって加わっているし、ヒットラーに大量虐殺を命令させるに至るまでドイツを追い込んだのは周りの国々である。

じゃあ結局誰が一番悪いのだろうという話になると、もう収拾がつかない。

周りが悪くても自分だけはそうじゃないんだと思いたがるのが人の悪い所だ。
誰かしらを悪者に仕立て上げなければ気が済まないのだ。

戦時下などで自分の置かれている環境が悪化するほどその責任を誰かに押し付けたがる。

人が責任転嫁をやめない限り、また戦争や虐殺はどこかで起きるだろう。

ある日突然自分が虐殺される側に立ったら・・・・。

もしくは他人を平気な顔で虐殺している側に立ったら・・・。

どちらに立っても私は人としていられるだろうか・・・?



【中垣 明希】










私がしている虐殺 宮崎楽市

私は中垣さんのコメントにとても共感しました。

実際にたくさんの人を、自分自身の手で、直接殺し続けたら、
自分はどうなってしまうのか?考えさせられました。


 しかし 少しして、 ふと 思いました。

私は今、人を殺していました。

例えば、約3.3秒に1人が、
飢えや渇きで死んでくと言われているこの世界で、

私はなんと贅沢な暮らしをしているのでしょうか。

私がもしも、自分のお金や時間、能力を、

例えば飢餓の解決に使い続けたら、今まで何人の人を殺さずに済んだでしょう。
飢餓問題全体から見れば、小さいことでしょうが、

それでも1人や2人では、決してない筈です。

しかし私はそうしませんでしたし、驚くべきことに 今後もそうするつもりは 具体的にありません。
ないのです。

私はしばしば

『自分にできることから始めよう』

というような言葉を目にしますが、本当にできることは、いくらでもあります。

でも私はしません。

ナイフや銃で人を殺すこと 

ミサイルのボタンを押すこと、

そして助けられる人の存在を知りながら放っておくこと、

どれほどの違いがあるのでしょうか?

大きく違う要素もあります。

例えば現実感がケタ違いだと思います。

どっかの国の誰かがある日飢えて死んでも、
全然リアルじゃありません。関係ない気がします。

しかし現実に、リアルに死んでるそうです。

いつか、ある日、どこかで、誰かが、なんらかの理由で
殺している のではないのです。

今 ここで 私が なんらかの理由で
殺しています。

そう考えると、
実際のところはともかくとして、

同じ人殺しの一人として、 私は、個人的には、

虐殺する人の気分がわかるような気が、
してきたりもするのです。

 
【宮崎 楽市】

思った事

残酷な映像を見ている時、広島の原爆が落ちた後の写真を思い出した。

作り手はただ現実を映していた。
そこにはナチスに対する悪意を感じなかった。悪意、嫌悪感は見る側から生まれてくるように感じた。

ナチスは現実にユダヤ人を大量殺戮した。それは許される事ではない。

しかしほぼ同時期、アメリカは日本に原爆を落とし、沢山の日本人を殺した。

戦後処理でアウシュビッツ、南京大虐殺は問題視され、原爆は正当化された。

アメリカの言い分、日本の言い分、ナチスの言い分。
人種、国籍、立場によって考え方は異なる。

結果はどうであれ、行った事は事実だ。
そして、その行為をどう捉えるかは個人の裁量次第。

とりあえず、私はこの映画に対しナチスの行った事に対し嫌悪感を抱き、原爆後の悲惨な写真を思い出した。

涙はなく、吐き戻すこともなく……

『夜と霧』
この作品の名前は知っていました。しかし授業で目にするまで自分はこの作品を機にかけることはなかった。
そのことをとても惜しく思います。それぐらいにこの作品は良い作品でした。

まぁ、内容的には坂本講師の仰っている通り、
筆舌に尽くしがたい。
言葉を失う。
そういうものです。

しかし自分はこの映像を涙することなく、トイレに駆け込むこともなく観ました。
涙を流すのは失礼に感じ、吐き戻すのはあまりにも情けなく思えたからです。

簡単にいえば自分より前にコメントされている【茂木 彩海】さんと同じ感覚でしょうか。

そこから考えても恐らく、戦争の残虐性を表現し、戒めるのに最も適した教材でしょう。

字幕もなく、ナレーションのしゃべっていることを聴き取れもしませんでしたが、しかしそんなものを意に介す必要がないほどに、映像と音楽、そしてナレーションの声のトーンが、製作者が何を言いたいかを切実なまでに伝えてきます。

きっと監督は「これを残さなければ!」という使命感のようなものを以て制作に向かったのではないかとも思えます。

「映像にする価値のある映像」とはこういうものなのだと、痛感しました。



さて、ここからは閑話であり、閑話でしかないのですが……。


自分が中学生の頃、修学旅行に行った時に丁度いじめの現場に出くわしたことがありました。

いじめられていたのは一人の女の子で、いじめていたのはその時同じ班にいた二人の男子でした。

その女の子に対して前々からいじめがある様な雰囲気は感じていたのですが、その現場に居合わせたのはその時が初めてでした。

その時の男子二人の言動は覚えていませんが、しかしとても酷い事を言っていたように思います。
あれも「人を人とは思わない」ということなのでしょう。

「人を人とは思わない」
実は縁遠いようで、以外に近くに転がっていることなのかもしれません。


この作品は確かに戦争のひどさを訴えていますが、何より人間のひどさを訴えた作品だと思います。

この作品を見て「うわ、戦争って酷いな。やっちゃだめだな」と思うのは―――こう言ってはなんですが簡単でしょう。

しかしそこでもっと立ち止まって、もっと自分寄りに考えてみれば、更に学べることがあるんではないかと自分は思うのです。


話が微妙にまとまっていないような、支離滅裂なような気がしますが、とにかくこれが自分の考えたことです。

乱文長文、失礼しました。

【藤田 博之】

私たちの罪

お恥ずかしい話ですが、私は正直な所、戦争に関する作品はあまり見たくないと思っていました。(この授業を受講していて言うことではないのですが)

見るべきだとは思っているのですが、信じられないほどに残酷な描写をどうにも直視できなかったのです。

例えば『火垂の墓』は幼稚園の時に見て以来、未だに絶対に見られないし、小学校の時に『はだしのゲン』を読んだときは、1週間鬱になってまともにご飯が食べられなくなってしまったこともあります。(これらが素晴らしい作品だとは思っています)


『夜と霧』も見るのが、嫌だなぁ…と思っていました。見てみと、もちろん目を背けたくなるような映像もありましたが、意外にも最後まで冷静に見ることができてしまいました。

しかし、今までで一番考えさせられ、一番心に重くのしかかった作品でもありました。

これまで見てきた作品は、あまりに衝撃的で残虐な映像から現実感が薄く、第3者的、客観的な立場で『戦争って怖いな』『人間ってひどいな』という感想を持っていました。

しかし『夜と霧は』穏やかな美しいメロディー、淡々としたナレーションによって、映像自体の衝撃は大きくはないのですが、逆にその演出によって、

『これが"私たち"のしたことだ』

と映像のメッセージや重みが浮き彫りにされていて、いままで現実味のなかった戦争が"自分"の領域に入ってきたように思えました。戦争が”一人称”の存在となったのです。


中垣さんがおっしゃるように、戦争とは誰かに『責任転嫁』できるものではなく、誰もに責任があって、戦争や虐殺という問題から目をそむけたり、関係ないと思うことは『罪だ』とあたりまえのことながら、はっきりと気づかされる作品でした。

「人」が人でなくなる瞬間

 戦争時であるから、彼らは人の死体をいらなくなった物のように、ブルドーザーでまとめて穴に落としたりしたのであろうか。追い詰められ環境だから、本来とは違う感覚が生まれたのであろうか。
 私は違うと思う。人間には、「奴隷」という感覚がごく当たり前に存在していた過去がある。アメリカでは、奴隷を見せしめで殺し、楽しんでいる人すらいた。信じたくはないけれど、人を殺すことが一種の快楽を得る手段となっていたのだ。そんなことがごく日常で行われていた。
 黒人を迫害していたのも、ユダヤ人を虐殺していたことも、過去の話だといってしまえばそれまでかもしれない。でも人間というのは、自分との間に一線を引くことで、「人」を人として認識しなくなる生き物であり、そうしたものに残虐な行為をとることを当然のように感じてしまうことがある。信じられない。だが迫害される立場にも、迫害する立場にもなりうる可能性があるのは事実だ。
 淡々と流れる残虐な映像がその事実を私に叩きつけてきた。
 先生が言っていたように「アウシュビッツを作ったヤツと、広島・長崎に原爆を落としたヤツは、五十歩百歩」なのかもしれない。結果的な残虐性で言えば、むしろ原爆を落とした人のが高いだろう。だが、しかし目の前で生きている人を、「もの」のように捉え虐殺する感覚と、米粒大すらないはるか遠くの人々を爆弾で殺す感覚は決して等しくはないだろう。生々しく殺すのと、無機的に殺すのと、どっちが残虐かは判断できない。ただ、目の前にいる自分と同じ姿かたちをした生き物を殺すことに抵抗を感じない感覚や、むしろ快楽を得る感覚を持ち得る事実の方が、私にとっては怖い。

観る意義

事ある毎に戦争について考えてきました。
8月の戦争ドラマや、三島由紀夫の小説や、ジョンレノンの音楽、映画。芸術やメディアのおかげです。といっても、今回この映画をみて、その他の地獄の黙示録のような戦争映画の登場人物たちが、いかに健康的で、表情豊かで、ノンフィクションであるかも知りました。

では、この映画は、戦争を知らない人類みんなが必ず見るべきか。
そうでもないな、と思っています。

平和に生きてきた人にとっては、この映画が残虐性にめざめるきっかけになっちゃうこともあるだろうし、第一、ベトナム戦争で死体の山を目の当たりにしたおじさんたちがイラク戦争を支持したりもする。
この映画ができた後もホロコーストの痛みを世界が知った後も、先進国はルワンダ大虐殺を止められなかった。

「事実をそのまま伝える」ことの尊さは絶対だと思う。
けど戦争が始まる原因は色々だし、「夜と霧」を見て戦争反対を唱えても成り行き上戦争することがあるかもしれない。
正当防衛だとか前線いくと奨学金がもらえるだとか。経済的理由だとか石油だとか支持率だとか、戦争のきっかけは至る所にあふれていて、道徳心があったって戦争はおきます。
極論ばっかで申し訳ないんですけど、言いたいことは、何かを学んでもそれを実践することは難しいじゃないか、ということです。

そんな中でたった一つ、学んで実践したある国を尊敬しています。日本です。二度と戦争しないと誓い、非核を続けています。
今は、ユダヤ系もアーリア人種も、同性愛者もどの教徒も仲良く暮らせる街があります。ハーフの子供は増え、白人夫婦にアジア系の養子もあたりまえで、人種も宗教もどんどん飽和されていると感じています。戦争のきっかけが沢山あるように平和へのきっかけも沢山ある。日本のように被爆という重い重い痛みを伴ったきっかけもあったが、例えば国際結婚のように、私たちあたらしい世代が増やしてる些細なきっかけがもっと積もってほしい。

命の質

この「夜と霧」という作品を見た時、まず自分の中に生まれた感情は恐怖に似た驚嘆だった。

人間が人間に対して行える行為の限界を超えている殺戮行為という映像は、私の中で一度もリアルな感覚で想像できていなかったし、目の当たりにした瞬間は一瞬理解もできなかった。

しかし、先生が「人間にはみんなこのようなことを行う可能性を秘めている」をおっしゃった時、どこか納得している自分に気がついた。

そうだ。これは僕と同じ『人間』が僕の周りに日常いるような『人間』に対して行った行為なんだ。ありえないなんて簡単に言えない。

一人の人間が命を落としたという事実を理解し、受け止めるにはあまりに多くの人間が殺されたという出来事を過ぎたことと受け止めるのではなく、現在生きている僕らが間違っていたことと受け止め、二度と作り出してはいけない地獄の世界だったと深く理解しなくてはならない。何度も何度も自分の中で繰り返し、亡くなった人の想いを【これから】に繋げていく。忘れないように何度も何度も……。

人間が人間でなくなるということは、物理的には不可能だ。
しかし、非人間になれるということをこの作品は教えてくれる。
感情の欠片のない人間の姿をした生物がここには映っている。

遠くなる使命感

「夜と霧」という作品が、ユダヤ人殲滅計画の果てを描いたものだと説明を受けたときは
正直「面白そうだな」と思いました。

人間がどこまで酷いことが出来るか。したのか。
その点において純粋に興味があったのです。
そして絶対に最後まで見届けなければならないと。

上の方々と同じで、言葉に詰まる内容です。
実際手を下したわけではないのに、私の中に罪悪感が芽生えました。
この時代にのうのうと生きていること。
作品を見てもどこか他人事のように感じてしまうこの事実。
「遠ざかる映像の前で希望が回復したふりをする。ある国のある時期の話と言い聞かせ、絶え間ない悲鳴に耳を貸さぬ我々がいる」
これは私のことです。耳が痛いです。

戦争はなくせると思いますか?
私はなくせないと思います。

うろ覚えなのですが

先日見たバラエティ番組で、宇宙に行くための建造物や基地を開発するのに全世界がお金を出し合えば ものの数年で実現するそうです。

でも 軍事費に回すのを止めて宇宙に全部つぎ込むなんてありえますか?
そこまで国と国は信頼し合えていますか。

戦争はなくなりません。
それでも人を殺したくないというのなら自分が死ぬしかないでしょう。


それと、私は慰安婦について視聴中も気になっていましたが、慰安婦として扱いたくないほどユダヤ人を人間として見ていないという事実に驚きながらも納得しました。
徹底しているなと。

演出面ではモンタージュが使われていて、受け手に悲惨さを想像させることに成功していたのではないでしょうか。
モノクロとカラーの対比が、遠くなる映像そのものを表現していたと思います。
BGMもイメージを固定しないよう、恐怖を感じさせる曲調ではない。ここも評価できる点です。

【鈴木美生】

何も感じない人はいるのでしょうか

作品中には想像を超える人間のひどい扱いがあり、衝撃を受けました。

特にもはや骨だけになっているほど痩せてしまった死体がぽーんと穴に捨てられ、力なく変な方向へ曲がって行く腕を見たときには、本当に何をやってるんだこの時代と思いました。そして、こんな時代が二度と来てはいけない、と思った私自身を正常な考えが出来ているぞ、自分。などと授業中は認識していました。

しかしそれはどうだろう、と後に考える事になります。
私は楽市君の意見に共感です。この作品を「衝撃的だった、やはり戦争はいけない」と評価したところでわたしはいま、別に何もしていない。

コンビニでアルバイトをしているが、賞味期限の切れたお弁当をバンバン捨てている。世界には飢えで死んでしまっている人たちがいることを知っていて。
もし私にもっと行動力があったなら、この弁当たちを冷凍し、貧しい国の人たちへ空輸するプロジェクトを立ち上げたり、弁当の廃棄を有料化し、そのお金を全額寄付に回す等、実行したかもしれません。しかし私は何もしていない。

ですが、何かしなくてはいけないんだ!と訴えかけることだけがこの作品の狙いではないでは、とも思いました。

あまりにも残酷な事実を淡々と、次々と見せるこの作品を通して、過去の事実や、二度とこんな時代が来ないように、という反省。そしてその事実の共有を通して、何かを考え感じるべきなのだと思いました。
それが例え私の様に、何もしていない自分の自覚でも良いのだと思います。

世界の広さを知り、歴史の深さを知る。そのチャンスをこの作品は世界中の人々に与えているのだと思います。
そして私の場合は、今現在の毎日を「平和だ」とだけ感じるのではなく、コンビニのアルバイトで弁当を捨てなくてはいけないとき、本当はこれではいけないんだぞ、と自分に釘を刺すようになった。

人間性

残虐な映像の数々を目にして、言葉が出ませんでした。

私は以前はこういった戦争映画やドキュメンタリーを見ることを嫌っていました。自ら見たい!とも思わなかったし、半強制的に見させられたことがあり、怒りすら覚えたこともあります。

知りたいことは知りたい。知りたくないことは知りたくない。。

そう思ってきました。


しかし大学に入り、自分が制作者側にたってみて初めて、ドキュメンタリー番組や映画をつくる人の気持ちが分かったような気がします。

事実を伝えたい・・・

その裏にある多くの人の想いを知って欲しい・・・


そういうことを考えたとき、残虐な映像を受け入れられるようになりました。


この夏に何本か戦争に関する映画を観ました。
(『硫黄島からの手紙』や、『出口のない海』など)

しかしそれらと『夜と霧』は大きな差があるように思えました。

私が見た戦争映画は、戦っている相手をきちんと人間としてみなしており、
(たとえば敵が自分の攻撃で負傷したにもかかわらず、とどめはささずに自分の陣地にまで運んできて看病する等)
「今は敵だから戦わなければならない。仕方が無いのだ。」という印象を得た。

しかしこの作品では、人間を何かの廃棄物のように扱い、誰も知らないような人間の残虐さを伝えています。

初めはどこまで醜いことをするのか・・・と怒りを覚えましたが、途中で気付きました。

きっと人間を人間として見なせなくなっている、ナチスの人間が人間性を失っているのだろう、と。
あらゆる命令の中で、初めはきっと躊躇する気持ちはあった。むしろ命令に従うことが出来ず、仲間に殺された人も当然いただろうと思う。
しかし従わざるをえない環境のなかで、どんどん麻痺していった、その最悪の姿を見たような気がした。



戦争をせずに共存できる方法は

互いの幸せを確保しつつ、いかに人間性を失わずにいられるかが問題なのでは?と考えた。

悲しい

以前、「東洋のヒトラー」と呼ばれたポルポト率いるクメール・ルージュが起こした「カンボジア大虐殺」の現場である、トゥール・スレンやキリングフィールドを見に行った事があります。その時私が感じたのは、戦争の恐ろしさや悲しさなどではなく、同じ人間が行ったことだという事実(仮)に、ただ唖然とするばかりでした。人間は、時と場合によって、どんなに恐ろしいことでもやってのけるのだと思いました。「夜と霧」を視聴した時も、同じ事を感じました。あそこで人を殺しているのは、私と変わらない人間です。ただ違うのは、今私はこの映画を前にして悲しい出来事だと感じる事ができ、こんな事が二度と起こらないでほしいと願う事が出来るということです。戦争の良し悪しについて語る事は出来ません。ただ、人が人を殺すのは悲しい事だと、どんな場合でも感じられる人間でありたいと、この愚かな映像を前に思いました。【鳥居慎太郎】

かなり大きい事になってしまうが、僕は「夜と霧」を見た時に”死”と言うものを考えさせられた。自分が考えてた”死”とは全く違っていたからである。

そこで今まで考えてきた”死”と一体何が違っていたのか考えてみる事にした。答えは凄く単純だ。今まで僕は“殺される”という事は考えていなかったのだ。それまでは、「あの人が死んだら悲しい」や「自分が死ぬってどういう事なんだろう」などといった感じで、かなり主観的に考えていた。もちろん学校の授業や色々な本を読んできた中で虐殺が事実であった事も分かっているつもりだった。ただそれが“つもり”で終わっていたのである。つまり“殺される”ってどう言う事なのか?と考えるまでに至らなかったのだ。

殺されるという事を考えさせてくれた「夜と霧」は本当に凄い作品だと思う。作品の説得力があるから、僕は自然と考える事が出来たのであろう。そして、ただ楽しむだけでなく人に何かを伝える為に作られている”ドキュメンタリー作品”の本質を見たような気がした。

もし自分が

もし自分がこの時代、場所に生きていたらどうなっていただろうかと思いました。
もしユダヤ人だったら?ナチスだったら?と考えると寒気がします。
人を殺していたかもしれないし殺されていたかもしれない。まともでいようとしてもまともじゃいられないかもしれない。自分が掲げる正義や信念などゴミのように捨てられるかもしれない。家族や友人も…

「夜と霧」を見て戦争が持つ純粋な恐怖の部分を垣間見ました。
このドキュメンタリーはナチスが行った大虐殺のほんの一部に過ぎませんが、映像からは十分過ぎるほどの「恐怖」が伝わります。
その意味でこの作品の持つパワーはすごいと思います。

今回私が感じた恐怖は当時の人々に比べたら本当に微々たるものでしょう。
現代を生き、日本に生まれ、戦争を知らずに生きてきた私にとってこれから先、一生わからない恐怖かもしれません。

それでも「もし自分が…」と考えると、怖くてしょうがないのです。




日本に生まれて

人間を人間として生きることの出来ない体と心こそ、一番の不幸だと思いました。あれは、自分を人間と認識し、更に、敵を人間という生き物として見ていたら、とてもできないことだと思いました。さらに、「夜と霧」を見て、ナチスの行った大虐殺の一部を見て戦争の全てを知ったような錯覚を持つ自分が怖くなりました。でも、「知ると知らないでは大違い」という言葉の最も合う時代だとも思いました。
私は、日本という国を出たことがほぼ無いに等しいです。
夜と霧を鑑賞するまでは、「国の違いも、所詮は同じ地球上に生息する生き物」位にしか考えていませんでした。
けれど、国が歩んだ歴史も、国民が見てきたものも全く違うのだな・・・ならば、今遺伝子を受け継いで生きている違う国の人々とは、生き物の種類が違うのではないかという錯覚さえ覚えると同時に、日本国に生まれたことに感謝しました。

夜と霧と朝まで生テレビを並べてみた

まず、提出期限を守ることができず大変申し訳ありません。
課題として認められるかはさておき、私も自分の意見を残したいと思います。


今、私はテレビ朝日の「朝まで生テレビ」を見ています。
世界経済についてどうしようか、複数の議員がわいわいと、それぞれの現在の世界経済、また日本経済の動向を説明しつつ見解と対策を述べています。
「大恐慌以来の危機なんですよ!」
え、そうなんですか。
たとえどんな変人であるにせよ、一億二千万分の一の私にはその危機的状況は理解できません。
だって目に見えないんですから。
そしたらこの番組は何の意味があるのか。
正直、報道としての価値は、その議員の品格を見定められることくらしか価値がないように感じます。


「夜と霧」はその全てが事実であると仮定するならば私の理想とする報道です。
ただそのものを知らせる、という純粋な機能を果たしているからです。


音楽やナレーションによる無駄な装飾をはぶいて素材で勝負する。
私は、報道というカテゴリを名乗る以上、素材で勝負することを目指してほしいと番組制作サイドに望みます。


これまではテレビ報道について意見しましたが、以下は作品を見た感想です。
戦争報道の中でも、人と人の争いや憎しみなどの醜い部分が浮き出るものではなく、「人が死と向き合い続けたときどうなるのか」、つまり「争い」よりも「死」の色が濃い作品です。
人は皆等しく死に直面しますから、全ての必ず何かを感じざるを得ないのではないのかと思いました。
同じように強制収容所の話で、731部隊のドキュメンタリードラマのようなものを見たことがあるのですが、それはドラマですから当然かもしれませんが、恐怖や狂気を強調したものでした。
夜と霧は、ほんとうにシンプルです。
だからこそ、人の表情が心に残ります。
人の表情って一番コンパクトなドラマかもしれないな、と、色々考えた結果、そんな結論に結びつきました。

『夜と霧』を見てもそんなに心打たれなかったのは、
私が他の人より優しくないからでもないし、
世界史に関心がないからでもありません。
もちろん、私もナチスのやったことに怒りを感じているし、
虐殺された多くのユダヤ人がとてもかわいそうに思えます。

しかし、
ドイツがユダヤ人にやったこと。
アメリカが日本にやったこと。
日本が韓国や中国にやったこと。
韓国がベトナムにやったこと。
はっきり言うと規模は違うかも知れませんが、
それらは全部一緒だと思います。

戦争だからしょうがないという無責任な話ではありませんが、
国の頭の人たちが指示すると、下の人たちはそれに従うしかありません。
最初はその指示通り一人、二人、そして三人、殺していくと
ますます罪悪感も薄れてきて、自分がただ人を殺す機械のように思われるでしょう。
その戦争が終わって誰も殺さなくても良い時まで。

もちろん、なんの罪もなく殺される人々が一番の被害者でかわいそうでしょうが、
戦争のせいで自分がやってしまったことに苦しむ人々も一種の被害者だと思います。

あ、忘れるところでしたが、これ見てあまり心打たれなかった理由は、
youtubeからの悪い画質の映像と、確か音もなく英語の字幕だったと覚えていますが、
それらの理由からです。そしてそれだけではありません。
『夜と霧』の映像だけでもその悲惨さは十分伝わったとは思いますが、
もし興味のある方には『ジェノサイド』という作品をおすすめします。
私は『ジェノサイド』を見てから『夜と霧』を見たのですが、
だからか『夜と霧』が『ジェノサイド』の予告編にしか見えませんでした。

正直、授業ではもっときれいな映像で見たい、ですね。
何か少し物足りないと思ったたのは私だけかも知れませんが。

人間は何でも出来る と心の底から思います。衝撃と恐怖はあるけれど、気持ち悪くはなりませんでした。淡々としているからでしょうか。実際に起こったことと理解していても、やっぱり非現実感は否めませんでした。

この映像を「残酷」とか「悪影響」とか言う人がいるのかもしれませんが、はじめに受ける衝撃っていうのは重要です。虐殺をやったのは世界中でヒトラーだけではない。戦争ではなくても、日常生活でもこういう事態を人間は引き起こすことが出来る、という恐怖感を持つのが大切だと思いました。慣れとは怖いものです。最初に感じた恐怖や衝撃を忘れてはいけませんね。
「戦争をしてはいけない」と言います。もちろん、大賛成です。でも、この映画を見たら、そのように発言するだけの行為がなぜだかきれいごとのような気がしてきました。【中野 美貴子】

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