テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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ハーヴェイ・ミルク/THE TIMES OF HAVEY MILK 2008-06-27

●ハーヴェイ・ミルク/THE TIMES OF HAVEY MILK

●1884年(アカデミー最優秀長編記録映画賞受賞)

●製作:ロバート・エプスタイン、 リチャード・シュミーセン

●ナレーション:ハーヴェイ・ファイアスタイン

●87分

●ハーヴェイ・ミルク(Harvey Bernard Milk)は、アメリカのゲイ運動家。1930年5月22日生まれ。1977年、カリフォルニア州サンフランシスコ市の市政執行委員に当選。ゲイはじめマイノリティ差別反対を訴えて活動するが、1978年11月27日、同僚委員のダン・ホワイトによって、ジョージ・マスコーニ市長とともに市庁舎内で射殺された。その一生と、射殺事件のその後までを描くドキュメンタリー映画。

●20周年記念デジタルリマスター版DVDが2004年にリリース。これには監督ロブ・エプスタイン、ゲイとカミング・アウトしたハーヴェイの甥スチュアート・ミルクなどのインタビューが追加されている。

●参考
「ハーヴェイ・ミルク」(Wikipedia英語版)
「ハーヴェイ・ミルク」(Wikipedia日本語版)

●坂本メモ

・冒頭の入り方に、まず注目。文章の「最初の1行」に何を書くか、と同じこと。

・典型的、定番的なドキュメンタリーの作り。しっかりした構成は、制作の手本になる。

・インタビュー映像をいくつも重ねていく。その一人ひとりが、なんと表情・表現力豊かで、パワーに溢れ、魅力的なことか。日本人でこういうインタビューが撮れるだろうか。

・アメリカとは、アメリカ人とは、アメリカ社会とは、ボランティアとは、マイノリティとは、ゲイとは、裁判とは、陪審員制とは、銃社会とは……、立ち止まって考えさせられる見どころが、実に多い。

・悲しい、衝撃的な映像だが、しかし、おもしろい。このおもしろさは、どこからくるか。

・これはハーヴェイ・ミルクの映画である。だが、明らかにダン・ホワイトの映画でもあると思える。

●見逃した者は、仕方ないから、ここへ行け

コメント

みるく

・悲しい、衝撃的な映像だが、しかし、おもしろい。このおもしろさは、どこからくるか。

と、坂本先生の仰る通り、私もこの作品に対して面白さを隠せずにいます。
キャラクターの強さがその理由だと思うのです。

ハーヴェイ氏は、蔑まされようとも、攻撃されようとも己の信念を貫いて行動します。
そして、それが同じく同性愛者たちの心に勇気を灯していくことになるのです。

一方のダン氏。追い詰められていく様が手に取るように私には伝わってきました。
そして、殺害に至ってしまう。

一方は他人に光を与える者、一方は何者にもなれない者。この対比です。
その圧倒的な差が作品に悲哀さを醸し出す要因になっていると考えます。
そして、光なき者が光ある者を駆逐する。なんという私好みの展開なのだ。

ここにキャラクターの面白さがあるのです。
まるで漫画やアニメを見ているような感覚でこの作品を見ました。(それはそれで問題かもしれませんね)
しかしこれは虚構ではなく、1970年代のアメリカで実際に起こった事件です。
ダン氏の刑罰も私からすると非常に軽い気がします。2人殺してるんですよ。
差別の影響と考えて間違いないでしょうか。

すみません、上のコメントを残した者ですがテンプレ通りに終わってませんでした。
じゃ改めて。

【鈴木美生】でした。

THE TIMES OF HAVEY MILK

ゲイが政治家になるっていう日本じゃ考えられない内容に、フィクションのような感覚で観てました。

つい先日、テレビのコメンテーターが「ルールのない自由なんてない」と熱弁されてましたが、そのルールを作り上げる過程の闘いや犠牲を垣間見られた気がします。

構成面でいうと、反ゲイ派の声をもうちょっと入れてほしかったです。
映像に出てくるのはほとんどが、ハーヴェイ・ミルク側の人間ばかり。
これじゃあ、このドキュメンタリーを観たほとんどの人間が「ミルクかわいそう」ってことになります。
仮に日本で、「自分の子供の教師がゲイに・・・」となれば、そう思う人ばかりではなくなるだろうし、それは当時のサンフランシスコでもそうだったはず。
ミルクが殺害された時なんて、内心よくやったなんて思っていた人もいたんじゃないでしょうか。
そういった点に目を背けたまま、マイノリティだけがあたかも正義かのように映し出す、公平さにはとことん欠けるドキュメンタリーでした。

ただ、内容的には十分おもしろかったし、先生の仰る通り冒頭の作り方が計算されていて、スムーズに入り込むことができました。
改革派のミルクとクソマジメなダンの構図もわかりやすくてよかったです。

梅田晃一


この回の授業は出ていなかったので、youtubeで観ました。

冒頭の記者会見とミルクの声明文も衝撃的でしたが、そのまま黒地に赤文字のオープニングタイトルがどーんと出てきたのが、一番衝撃的で印象に残りました。まるで今からホラー映画が始まるのかと思わせるタイトル。考え過ぎかな?と思って観ていると、ミルクの強烈なキャラクターに魅せられて、youtubeのキャプチャ10本を一気に観てしまいました。エンドロールが流れるまでは、この映画は世界中のゲイの為、そしてミルクと市長の為に作られた映画なのかと思っていました。けれど、エンドロールが終わる最後の最後に、「映画完成後 1985年10月21日 ダン・ホワイト自殺」という文章を観た瞬間、それまでの考えは一転しました。
この映画は、ダン・ホワイトを殺す為の映画だった。そう感じた瞬間、背筋がゾクリとしました。勿論、ドキュメンタリーなのだから、映画の最後に実際に起きた事実を追記しただけかもしれません。それに、私は別に、ホワイトの自殺の原因がこの映画だけとは全然思っていません。ただ、最後にあの文章があることで、「正義が裁かなかったホワイトを、我々が映画で裁いてみせたんだ!」という製作者のメッセージを垣間見た気がしたのです。
おそらくこの映画を見たほとんどの人が「ホワイトは死刑になるべきだった」と思うことでしょう。私も実際、ホワイトの刑は軽すぎると思いました。でも、ふと考えてみると、まるでこの映画に「ホワイトは死刑になるべきだ、そうでしょう?」と上手く思わされた気がしたのです。
この映画はミルクの側から作られた映画なのだから、それは当然かもしれません。でも、少しでも良いから、ホワイトの葛藤が知りたかったです。ミルクの陰で、何を悩み、何に怯え、何から逃げる為に自殺をしたのか。きっとそこには、人間誰もが持っている劣等感がある気がします。

若干、思い込みが激しい感想文になってしまったのですが、私にとって、この映画は人ひとりを殺す為につくられた映画です。非現実世界で殺人が起きるホラー映画なんかより、とても怖く、恐ろしい作品でした。

【谷山浩子】

これはミルクを通してアメリカの社会問題について考える映画というより、一人の、自分自身のままにひたすらに生きた人間の物語だと思う。
多くの人が、彼のように生きたいとひそかに思いながら、矛盾などがすむ社会と一緒に生きていて、そのひっそりとした感情を彼は自身の個性をもって社会に投げかけ、かき回したからこそあれほどの大きなうねりになったのだと感じた。
その時のその場所の空気が伝わってきてとても分かりやすく面白かった。
また映画自体もシンプルで綺麗だった。特にタイトルが映し出されるまでのオープニングがとてもドラマチックだった。初っ端に事件後のざわざわした様子を見せられ、何が起こったのだろうと気になった。そしてミルクが殺されたあと、道に広がったたくさんの追悼の光は今も鮮明におぼえている。美しかった。映像といい、シーンに合った音楽といい、演出が上手いと思う。

そして、私も谷山さんと同じようなことを、最後の文章を見て感じた。
ホワイトがこれを観たかどうかは知らないし、監督の意図を断定することは出来ない。が、この映画が事件に対する大勢の人の見方を同じ方向に向け、いっそうホワイトを追いつめることになったのは確かだと思う。
でもほんとうの公平、客観性などあるのだろうか。なにかを作るとき、かならず自分の中に伝えたいものはあって、伝える時には自分の体を通して発信する。自分の伝えたいことを分かりやすく伝えるには、公平という言葉は不可能に近いのではないか。
ドキュメンタリーと名の付くものがかならずその世界の事実を表しているとは思わない。監督にとってこの映画が彼の考える真実だった。また、あのときミルクという人間が居たこと、その時の社会の一片を映画があらわしていたことは事実だったと思う。



【鈴木 巴】

映画を見てまず思ったことは、「是非私もミルクさんに会ってみたい!」ということでした。


彼は、ゲイという以外(ユダヤ人ということも少しはあるかもしれませんが)、マイノリティな要素はあまりなかったと思います。
その「ゲイ」という事実がアメリカという国ではあまりに大きな障害であり、
また他人と強い絆を作るきっかけとなり、強い行動力と人々を動かす力を生んだことでしょう。
しかし、マイノリティな要素は誰もが持ち合わせているものなのではないでしょうか?
マイノリティ(minority)とは簡単にいうと「少数派」ということです。
映画中のミルク氏側の発言でも、「同性愛者やその他の少数派」といったような表現が何度か出てきています。
「同性愛」というと少し遠いような感覚がしますが、思想や身体、職業、人種、色々な分野を考えると、誰しもマイノリティな部分を持っていると思います。
同姓愛者以外にも彼を支持する人が多く居たのは、皆がそれぞれマイノリティな部分を持っていたからなのではないかと思いました。

しかし、世の中では俗に言う多数決の原理が広まっていて、なかなか声を上げられなかったり、諦めてしまっている人が多いのではないかと感じています。
特に日本では、事なかれ主義や長いものには巻かれろ、といった風潮が根強く、
なんとなく皆と一緒だと正しく、外れているものは間違いと無意識に考えてしまう場面が多いと思います。
そんな日本に、もし彼がやってきたとしたら…?
そう考えると少し恐ろしくもワクワクして、面白いことをしてくれるのではないかと期待してしまいます。


ミルク氏を見ていると、「政治家」というより「エンターテイナー」という印象を受けました。
彼を支持する人々は、有権者と言うよりも彼のファンであり仲間だったのでしょう。
特に同性愛者の方からすると彼はヒーローでありリーダーです。
そんな彼が殺された時の、「沈黙」と「喪失感」というフレーズがとても印象的でした。
「悲しい」という思いより「失ってしまった」という気持ちの方が大きかったのでしょう。
そして、暴力を必要としなかったリーダーを失った後の暴力の連鎖。
やはり、力のあるコミュニティにはリーダーが必要で、それを失った反動はとても大きいのだな、と感じました。


映画自体のつくりも、重苦しくなく、音楽も綺麗で緩急がありとても見やすいと感じました。
時系列で何人かのコメントが入ってきて、事件や状況が比較的わかりやすかったです。
ただ、ミルク氏自身のコメント映像が少なくて、少し物足りなく感じました。
殺されてしまった後に制作されたものだから仕方ないかも知れませんが…。

また、「公平さに欠ける」というようなコメントもありましたが、「そこまで公平さに欠けているかな?」と疑問に思いました。
確かに、極端に誰かが悪者になったりするのは考え物かもしれません。
しかし、作品を作るにあたって製作者の思いや意図、思い入れは入ってしまって当然だと思います。
逆にあまり公平すぎるものを見ると、「結局なんだったんだ…?」と思ってしまうこともあります。
映像の長さやコメントの量が同じだからといって公平だとは限りませんし、
公平かどうかは視聴者の考え方、着目点、知識量などにより変わってくると思います。

最後の「映画完成後 1985年10月21日 ダン・ホワイト自殺」ても、私は全く違う印象を受けました。
私は、この最後の文でホワイト氏もある意味で救われたのではないかと思いました。
もしこの文がなくてホワイト氏のその後がわからなければ、(殺した動機などは別として)「人を殺しておいてノコノコ街に帰ってきて生きてるのか!?」と思う人も少なからず居ると思います。
ホワイト氏がその後どんな気持ちで居たのかはわかりませんが、人によっては「気に入らない奴を殺してすっきりして生きていたんじゃないのか?」と思ったりもするでしょう。
そんな中最後の「自殺」という事実を知ることによって、「ホワイト氏も罪悪感にかれれていたのだろう」と、最後に彼に対しての印象が代わる事もあると思います。
本当の意図は解りませんが、私は最後の文がそこまで酷い意味が含まれていたとは感じませんでした。


皆さんのコメントを読むと、やはり色んな考え方があるのだな、と勉強になります。
また、ドキュメンタリー作品を見るためには色々な知識が必要だと痛切に感じました。
ドキュメンタリーは奥が深い!


【田中 空】

冒頭で物語の終結を見せてから始まるミステリー的構成にしても、マイノリティをマジョリティと戦わせることの重要性を強調するようなメッセージ性にしても、
私はこの作品から「事実を介して創作的作品を作り上げる」という制作サイドの姿勢を強烈に感じた。
そしてそれはこの作品の面白さの一番の要因で、しかもドキュメンタリーをドキュメンタリーたらしめている一番重要なことでもあるように思う。
 
ドキュメンタリーという言葉が持っている記録性というイメージ以上に、この映画は凄くドラマチックだ。
全てが現実に起こった事の寄せ集めであるにも関わらず、こうもストーリーがしっかりしているというのは、事実に対してとても創造的な印象を受ける。
それはハーヴェイ・ミルクが殺害された事件から発生した、作り手の明確な主張を表現しようという意思の現われだろうと思う。
例えば全体を見渡すとハーヴェイ・ミルクという人間はアメリカ社会とマイノリティの戦いの象徴のとして描かれている様でもあるが、そうした客観的事実よりも、作り手の時事の切り取り方の妙によってキャラクターとして魅力的に作られている。
支持者にはとことん愛され、反発を持つものには最終的に殺される。それは彼の人生の強烈な部分を更に強めて写し出しているからであり、だからこそ感情移入しやすく、同情を誘うのかもしれない。
ダン・ホワイトにしても、マイノリティ排除の姿勢を持つマジョリティの典型としてのイメージを持たせて、一見同情の余地がない完璧な敵役かのように仕立てている。
更に事後インタビューに登場する面々もかなり個性的に思われる。それはインタビュアーの質問は写さずに、
あくまで登場する人々の主張として写している感があるからだろう。こうした事からも、作り手の意思表明めいたものを私は感じる。
私が格段この映画が優れていると感じるのは、このような「人」と「事実」の捉え方である。
つまりドラマ性が強いミステリー的構成で観せる創作的巧みさを持っているにも関わらず、
それぞれ個人の感情を作り手のメッセージを介してクローズアップし続けることによって、
受けて側に自らの価値観と向き合わせる事に成功していると思うのである。

私はこれを観てアメリカ社会に置けるマイノリティ云々ということは考えなかった。遠い国の遠い出来事に感じた。
しかし自分の置かれた立場が社会的に多数派もしくは少数派になったとき、意思を持って生きる道を選べるようでありたいと思った。
ハーヴェイミルク殺害事件という具体的事例が自分に密接しているように感じることが出来ない分、この映画からは自分の意思を持って社会での立ち居地を捉える事、それ自体の重要性が強く訴えかけられたような気がした。

【佐々木 亮介】

広いアメリカ

このコメントを書くうえで、もう一度映画を観直しました。


「スーパーバイザー・ハーヴェイミルク」はアメリカで生まれた人なんだと思いました。
そうならざるを得なかったのだと思いました。
それはかれが同性愛であること、かれの性格も多分に関係するのでしょうが、この映画を観ていてやはり、アメリカ、を意識せざるを得ません。
日本で生まれ育ち、日本で暮らし、唯一神の宗教を信じないわたしが想像するよりはるかに、保守的な考えの根強い国、アメリカ。
アメリカでユダヤの家系に生まれ、青年期に(おそらくハーヴェイが初めて恋をしたときなのかな)ゲイを自覚し、気づけば自分は、このアメリカでは、キリスト教の教えに背いた存在であり、口に出すのもはばかられるマイノリティなんだ、と思い、否が応でもそれを受け入れるより道は無く、それと同時に、アメリカでの黒人やアジアン、障害者、老人、自分と同じ同性愛者たちの現状に目を向けざるを得なかったのでしょう。普通に育った男の子はやがて多様な人々が入り交じって暮らすアメリカの広さに気づきます。
ダンホワイトも普通に育ったまじめで熱心なキリスト教徒だったのでしょう。かれはしかし、ハーヴェイが見ざるを得なかった広いアメリカを見ていないのでは、と思います。

マジョリティとマイノリティ。喜びと落胆。暗いカストロカメラの暗室と明るい日差しの注ぐゲイパレード。保守と革新。
ハーヴェイミルクは、これらのようなことを対極とした広い世界、広いアメリカを見渡せるパワーを持った、振れ幅の広いアメリカ人であったのだろうとおもいます。そしてそれは、かれがアメリカの中でマイノリティであることを自覚したからだとおもいます。
しかし広いアメリカを見ることが出来なかったダンホワイトによって、撃たれてしまう。
映画ではダンホワイトの自白テープが流れるけれど、殺人の理由としては何も語られていない様に聞こえてしまいます。「納得できないものは排除してしまおう」というような考えが、保守的な考えの最も怖いところであり、ダンホワイトが銃を撃った理由も、結局そこにあるような気がしてなりません。

「スーパーバイザー・ダンホワイト」もまた、アメリカという国で、保守的な考えの環境で生まれ育ったが故に生まれた人なんだと思いました。
そして「スーパーバイザー・ハーヴェイミルク」はアメリカに生かされて、また殺されたのだろう、と思いました。

余談なのですが、映画を観ながらジョンレノンを何度も思い出した。
かれもまた、広い世界を見ていた。

ハーヴェイ・ミルク

 授業でこの映画を見た帰り道、私の心の中は強くエネルギーに満ち満ちていたことを覚えています。

 その当時私は、個人的に重大なことを、まわりの反応や反対を恐れて口外することが出来ずにいました。だから、ゲイというマイノリティの人々の、カミングアウト出来ない抑圧感や、疎外感、葛藤などにとても共感し、同時にハーヴェイ・ミルクという勇敢で魅力的な味方を得た気がして、嬉しかったし、自分も強くなった気がしたのです。

 そう考えると、私が映画でこれだけ感化されたなら、リアルタイムではいったいどれだけの人々に喜びと勇気と誇りを与えたことでしょう。
 彼はカリスマであり、ヒーローです。そんな存在が、暴力によって失われてしまった。

 先ほどこの映画の二度目の視聴を終えたのですが、その直前まで私は、「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三について色々調べていました。
 そして、ハーヴェイ・ミルクと奥崎謙三の存在に共通点があることに気がつきました。それは、 強い存在とはいえないマイノリティでありながら、大きく声をあげ、自分の主張のために戦っている ことです。
これは誰にでも出来るような簡単なことではないですよね。相当な覚悟と犠牲が伴うことだから。

しかしながら、
私はミルクは尊敬しますが、奥崎を尊敬は出来ません。
なぜなら奥崎は暴力を正当化するからです。

 作中で、ミルク死後の沈黙のマーチについて、 
 「暴力に対する最も雄弁な表現でした。ゲイもレズビアンも異性愛者も一緒に行進し、暴力以外の方法で国中に訴えたのです。」

といっています。
私にはこの言葉がとても印象的でした。
言葉や沈黙によって意思を伝えることが人間には出来るのだから、暴力は必要ありません。戦争は繰り返されていますが、人類の歴史でみると、その数は間違いなく減少しているようで、
ヒトが言葉を使いこなせるようになってきたと見て、いつかは暴力がなくなると信じてもいいのではないでしょうか。

 話が暴力の方向に逸れましたが、
最近私は、上記の、個人的に重大なことというのを、お酒の力によって他者に漏らしてしまいました。そしてそれはたちまち友人から友人へ伝わりました。今では私の友人のほとんどが知るところとなりました。
勇気を持ってカムアウトするのよりも、聞こえは良くないですが、とにかくカムアウトして良かったと感じます。
自分で自分を認められるようになり、その事実自体も誇りに変わったからです。開き直りです。
ハーヴェイ・ミルクの「カムアウトしよう!」という言葉は、
この喜びをみんなでシェアしようという意味でもあるのかなと、今は思います。
 

本当にいろいろな事を考えました。いい意味でも悪い意味でもやっぱりアメリカって国はすごい。みんながはっきりと何かに属していて、いつもそれについて議論していて、争ったり認めあったりしている。宗教に関して、人種に関して、性に関して。

真剣に考えるということはそれだけそれに対して神経質になるということでもある。アメリカに行った際、すれ違う人と少し肩がぶつかっただけで、皆すぐ「アイム・ソーリー」と言う。謝罪することによって、その接触に関して自分は何の意志や含みがないことを相手に対して提示する習慣がついている。えげつない言い方をすれば、そうでもしなけりゃ何されるかわからないからだ。

そんなアメリカという国で、ハービーのやったことってすごい勇気があって危険な行為だったと思う。実際に殺されてしまったけれど。この人の勇気がなかったら、同性愛者は今よりももっと肩身の狭い暮らしをしていたに間違いない。

ドキュメンタリー作品としては、題材というか実話自体に力がありすぎて、構成がどうのこうのまったく注意できませんでした。すいません。でもこんだけ色々考えたくなるということは、いい作品なのだと思います。

ハーヴェイ・ミルク

あからさまに授業の前日に課題を思い出して焦って書き込んだ、という感じになってしまいました・・・。その通りなので言い訳できませんね。

ハーヴェイ・ミルクを視聴して私がまず抱いた感想は、やはり他の多くのみなさんと同じように「おもしろかった」でした。キャラクターの個性の描き方、映像や音楽の使い方の妙、全体的に出来のいい映像作品だと思います。

ただ、一方でやはり他の皆さんと同じように、何と公平さに欠けるドキュメンタリーか、とも思いました。自分の中ではこの感想は前述した「面白かった」という感想以上に大きい。そして個人的な考えではドキュメンタリー映画においてこの「公平さ」とは、面白い云々よりも最も重要視するべき点なのではないかと思う。

この映画を見た人はそりゃあ「ミルクかわいそう」とか「ホワイトの刑は軽い」と思うでしょうよ。そして確かにそれは事実であるでしょう。しかしそれでは製作者の思い通り。ドキュメンタリーにおいては、視聴者が必ずしも製作者の思い通りの感想を抱くのはいかがなものかと思う。なぜなら、実際に世の中で起こった事象には必ず多面性というものが存在するのだから。製作者の伝えたかったこと以外の側面が必ず存在するはずである。そして事実を多くの人に伝える性質を持つ映画であるのならば、製作者の意図から外れていたとしても、複数の視点からの描き方が必要なんじゃあないでしょうか。なぜなら実際に起こった事象というのは、様々な人々の人生や生活に影響を及ぼしているのだから。この映画がその「様々な人々」を十分に描けていたとは決して思えない。

誰かが感想に書いていたように、反対意見がほしいところです。ミルクを崇拝し、敬愛し、擁護する人々だけを描くのではなく、ミルクを批判し、ゲイやマイノリティを批判する人々が、このミルクという人物の存在や生涯や起こった事件についてどう感じているのか、個人的にはそこが知りたい。冒頭に述べたように、確かにこの映画はおもしろかった。けど飽きた。おんなじ側面からしか事実を捉えていないように感じずにはいられなかったから。

故に(単位とか恐れずに書くが)坂本先生の「典型的、定番的なドキュメンタリーの作り。しっかりした構成は、制作の手本になる」というご意見も個人的には承服できない。ドキュメンタリーってそれでいいんでしょうか?アメリカの社会問題で、それ以上に二人もの人間の命が犠牲になった事件を描く際に、偏った側面からしか物事を描かない構成は、果たして手本にしていいんでしょうか?「公平さ」なんて受け手によって変わってくると言われればそれまでですが、それ以前にドキュメンタリー作品の製作者には「公平に描く」という意思が欲しい。その意思が伝わってこそ視聴者は本当に感情移入して、自分の価値観と照らし合わせて実際に起こった事実を真実のものとして考えられるのだと思います。個人的にはドキュメンタリー作品はただ真実を伝えるということに徹して欲しいんです。

【小森義大】

小森義大の意見への反論

※前のパスワード忘れちまったんで、新しいパスワードを使う。トリップが前と違っているが、坂本の書き込みだよ。

【1】「典型的、定番的なドキュメンタリーの作り。しっかりした構成は、制作の手本になる」──その通りじゃん。構成がしっかりしてないヤツは、しっかりした構成をマネすりゃいい。そのことと、公平うんぬんは、まったく別の話でしょう。

 たとえば、この映画の構成をマネて、ダン・ホワイトを思い入れたっぷりに描くこともできる。前半でミルクを思い入れ入れたっぷりに描き、後半でダンを思い入れたっぷりに描いてバランスを取ることもできる。構成とは、構え・組み立て(方)のことだから、中身を入れ替えれば、どっちよりにもできる。ならば、「構成」と「公平」に関係はない。

【2】小森義大のいう《ドキュメンタリー制作者には「公平に描く」意思が必要》との意見について。

 坂本は断固反対。公平=「かたよらず、えこひいきのないこと」だから、この場合は、「殺したヤツと殺されたヤツを、一方に偏らず公平にバランスよく扱え」とか「ゲイのヤツと、ゲイを攻撃するヤツを、一方に偏らず公平にバランスよく扱え」と主張しているわけだが、なんで? まるで理解できない。

 たとえば、麻原彰晃に関するドキュメンタリー作者は、麻原と被害者(坂本弁護士一家、地下鉄サリン事件死亡者など)を、どちらにも偏らず、公平に描かなければならないわけだ。無差別テロ殺人を仕掛けて被害者数千人を出した麻原と、ただ地下鉄に乗っていて殺された人を、「公平に描く」って、どうやるの? それこそ構成案を提示してください。

 授業で流した映像のうち、たとえば「夜と霧」は公平でもなんでもなく、ヒトラー馬鹿野郎という立場から作ってある。でも、それでは、見る人は感情移入できない。だから「夜と霧」はダメ・ドキュメンタリーである。いやいや、ヒトラーにもいいところありましてねとか「ナチとユダヤを公平に描く」映像ならば、見る人は感情移入できるのだ、というのが小森説。私はまったく同意しない。

 殺された600万ユダヤ人の遺族にそう言っても、2000万人くらいに「馬鹿じゃないか、お前」といわれて、おしまい。ドイツでも、ヨーロッパ全域で聞いても、ネオナチなど一部の奴らを除き、誰にも相手にされないと思うけどねえ。

 なぜならば、ヒトラーのナチスドイツは、公平に扱うべきものではなく、徹底的に攻撃すべき存在だという社会的な合意が成り立っているから。言い換えれば、公平より大事なものがあると、みんな思っているから。私も公平より大事なものがあると思うから、公平なんてくそ食らえと思う。

【3】《ドキュメンタリー作品はただ真実を伝えるということに徹して欲しい》という意見について。

 真実って何? まず、定義してください。極めて偏った映像と小森が考える「ハーヴェイ・ミルク」で、伝わらなかった真実は、どれとどれ? 伝わった真実は、どれとどれ? それとも、真実は一つも伝わらなかった?

 以上を具体的に示してから議論しよう。「真実を伝えるべき」では、あまりに抽象的なのでね。【坂本 衛】

おもしろい。
映画よりも映画らしい内容で、完全に入れました。

数ヵ月前、韓国のあるゲイの芸能人が自殺する事件がありました。
(ちなみに韓国は色々な意味で日本よりずっと保守的で、
まだまだ同性愛などは良い目では見られません。)
その事件が発端となったのか、それともただの流行なのかはわかりませんが、
ここの数ヵ月間何本ものゲイ映画や同性愛のドラマが作られ、
ケーブルテレビではゲイ専用の番組までできました。

もちろん今のそのような現象をまた悪く思っている人も多いですが、
個人的に私はそういうの嫌いではないし、いやむしろもっと盛んになる(!?)べきだと思います。

『ハーヴェイ・ミルク』、ある勇敢なゲイの政治家の波乱万丈で、
しかし決して長くない人生のお話、とてもすてきでした。

どこで聞いた言葉だったかな、
「良いな~」と思った男性にはすでに彼女がいて、
「完璧だ!」と思った男性はゲイだ!
差別的な発言だったら許してください。
間違ってない話だと思います。ミルクさんも私にはとても魅力的に感じられましたので。


ちなみに、宗教の話をする気はありませんが、
バイブルには同性愛者の人々は汚い、出くわしたら石を投げろと書かれています。
愛の充満な神様としては、なんとひどいこと言うのでしょうか。
それにその神様って、ナチスに虐殺されたユダヤ人の神様ですから、なんかアイロニーですね。(もしキリスト教の方いらっしゃいましたらすみません。
っていうかその前に私の家がイエス万歳の家柄なので、これバレたら大変ですが(笑い))


同性愛だけでなく中絶も含め、アメリカ人が結論を出す日はくるのでしょうか。

人種差別はこの数十年で「断固よくない」とアメリカ人の総意がでたと思います。どの州でも人種差別をなくすための条例があるそうです。しかし、中絶と同性結婚は州によって禁止であったり、オーケーであったり様々。政治家も一人一人が違う意見をもっています。

同性愛反対派の中絶反対派であるブッシュが支持され8年も大統領の地位にいた現代と、Havey Milkのいた70年代とは、同性愛とアメリカの関係が何もかわっていないと思う。
しかしテレビドラマには必ずゲイが出てくるし、ゲイのカウボーイの映画はアカデミー賞をとり、大衆は完全に受け入れ態勢を整えているように感じる。
来年1月20日、オバマのChangeで、クリスチャン・アメリカ人が時にはバイブルの事を忘れ、ゲイがあたりまえの今の世の中を受け入れるようになれば、Havey Milkの不幸はもう起きないのだと信じます。

ハーヴェイ・ミルクってアニメのキャラクターみたい、と思いました。笑顔がとってもチャーミングで、キラキラしているヒーロー。そんな風に書いてしまうほど魅力的な人でした。

彼のことを語る面々も、個性的。みんながどこかでマイノリティ。熱心に、楽しそうにみんなが ミルクとの思い出を語るのがすごく印象的で、彼を愛し、心から誇りに思っていることが伝わってきました。また、友人たちがミルクを語ることで、写真や映像でしかないミルクが自分の中でものすごい厚みを持ち始め、映画を見ながら私も彼のことが好きになりました。

ホワイトだっていかにも優等生で好青年で、普通に見ればヒーロー向きなはずなのに・・・。ホワイトは圧倒的に弱かった。
ミルクの柔軟さとしたたかさ、ホワイトの真っ直ぐさと弱さが対照的過ぎて、お互いを浮き彫りにし合うなと思いました。

アメリカのドキュメンタリーを見るといつも私は、アメリカは私が思っているほど自由の国ではないんだな と思います。提案6号 もし生徒が自分がゲイだと自覚したとき、教師がゲイであるという理由で仕事をクビになったり、差別を受けているのを見たらどれだけ辛いか・・・。ゲイの教師を批判するってことは生徒のことを批判するのと同じです。それはゲイだけじゃなく人種、障害、年寄り、いろんなことに共通します。生きにくい世の中です。でも、生きにくい世の中を変えたいなら、自分自身が誇りを持って主張しなきゃ。最後のミルクの言葉には感動しました。ミルクによって助けられたひとは私が思っているよりずっと多いと思うし、多くあって欲しいと思います。今でも、この映画を見て助けられている人もいるでしょう。映画によっていつまでもハーヴェイの意志が伝っていくのは素敵なことです。

殺されても希望と勇気を唱え続けるハーヴェイと殺しても満たされず希望もなく自殺したホワイト。すごいドラマチックですね。

谷山さんの「ホワイトを殺すための映画」っていう意見には うおーーーーと声に出すくらい衝撃を受けました。が、私は2回目を見てもそうは思わなかったです。いろんな見方がありますね。勉強になります。
      【中野 美貴子】

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●ブログ開設は2006年ですが、1999年からマスコミ演習、マスコミII、放送特殊研究Vといった授業を担当しており、2005年以前のレジュメなど古いものも置いてあります。(坂本 衛)
 

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