テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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いじめ問題 2006-11-01

こんばんは。火曜日担当の鮎川です。

昨日は個人的な事情によりブログをお休みさせていただきました。すみませんでした。昨日の分を今日書きたいと思います。

今日、最近始まったZEROという番組をみた。最近頻繁に報道される、いじめによる自殺のことをやっていた。岐阜県瑞浪市で女子中学生が自殺した事件だが、学校側が今日臨時集会を行い、生徒達に生徒の自殺がいじめであることを説明して、これまでの発言を撤回し、校長が生徒に謝罪しているというニュースだった。

「彼女の死を無駄にしないようにしよう」だとか「いじめは絶対に出さない学校にしよう」という校長の言葉がちっとも心に響かなかった。
なんとなく、子供達に対しての謝罪というよりも、世間の大人たちに対するもののようにしか聞こえなかった。

こんなにもいじめというのが見つけにくいものなのだろうか。すぐ側にいるはずの教師が気づかないでどうするのだろうか。学校側はスクールカウンセラーを3人増やすという対策をとったらしいが、ケアに力を注ぐだけではいじめの予防には繋がらないと思う。

このニュースだけではなんとなくサラッと流されて、あじけない報道だったように思った。

しかし、スタジオでのコメンテーターのコメントがとてもよかったように思える。

長嶋一茂「いじめがあるかないかという議論はあるということを前提に話すべきだ。文科省・教育委員会・担任などはなんとなく犯人探しをしているだけのように思える。本当に子供達を守ってあげられるのはやはり身近な家族で、子供達のシグナルを気づいてあげるにはちょっとしたおはようの挨拶など、小さなコミュニケーションが大切なのではないか。日本というところは逃げや甘えに対して否定的な部分があるが、いじめられる側を追い込むのではなく転校なども一つの道として、そういうや選択肢与えてあげることが大事なのではないだろうか。」

学校側の対応を見ていて、私がいらいらしていた原因を全て挙げてくれたような気持ちになった。これは個人的な意見になってしまうのかもしれないが、彼の言っていることは本当にもっともなのではないかと思った。

彼のコメントが報道内容の薄さだったり、視聴者の消化不良を充分にカバーしたように思えた。長嶋一茂は、あの学校の校長なんかよりももっと現実の深刻さの核心にせまっているなと思った。

この番組はあらゆる層の視聴者を取り込むためにか、タレントを多く起用するなどして工夫したらしいが、かなり不調らしく内容に深みがないと不評らしい。

普段私はみていないし、このニュースの内容のところだけ真剣に観たのでそういった全体的な番組の良し悪しについてはなんともいえないが、わずかに観たこの部分においてはコメントがよかったなと良い印象が残った。

別に長嶋一茂を褒めるために書いたわけではないが、(失礼だが正直大したことないと思っていたし・・・笑)こういう濃厚で核心に触れたコメントをスッと言えるようなコメンテーターがそのニュース番組の質を何倍にも高めるのだと思った。

コメンテーターひとつで番組の質がまったく違ってくるのだということを改めて強く感じた。


先生に短くていいと言われたにもかかわらず、またもこんなにも長く書いてしまってすみません(笑)



《番組情報》
番組名 ZERO
放送局 日本テレビ
時間帯 22:54~23:55
メインキャスター 村尾信尚

【鮎川ゆき】

コメント

それより先にすべきことは

いえ、長文で書かれるってその意気やよし、でいいと思いますよ。もっとも番組名は「NEWS ZERO」ですけど。
 ところで村瀬さんの記事でもレスしたことですが、教師は万能ではなく、すべての子どものことは把握できないと思いますよ。もちろんアンテナを張っておく必要は教師にはあると思いますけれど、ちょっとした変化は教師が思い過ごしと思うかも。そこに明確な境界はないのです。
 あいさつにしても、儒教や説教(←駄洒落ではないですけど)が好きな人ってその意義をやたら強調しますけど、それも万能じゃありません。
 最近のマスコミはそういう点を検証せずにタレ流しますからねぇ。そういえばこの番組も、9月までの「NNNきょうの出来事」とは違って、報道局制作ではないんですよね。
 そんなことよりも、教師が自分に本当に命を大切にしようと思う心があるのかどうか問うのがずっと先決でしょう。

まず何をすべきか

いじめってゼロにすることは無理だと私は思っています。

人間ひとりひとりに個性があると同時にそれは、気が強かったり弱かったり個人差があるわけだから、その社会の輪の中で小さな上下関係のようなものが出来てしまうこともあります。それは仕方ないことです。

だからそれをどれだけ最小限に食い止めるかというところですよね。

命とかっていう大きな問題は「大事だ」と言われただけで理解できることではなくて、自分が小さいころから人や動物なんかと接触する上で自然と身に着くものだと思います。いじめる側だって普通は、自殺させたいと思っていじめをするのではないのだから、まずは命の大切さなどといった漠然としたことを教えるというよりは、人を思いやる心を育てるように大人たちが子供を導いてやるべきだと思います。

最近学校というところが、なんだかすべてマニュアルで動いているような傾向にある気がしてなりません。

>教師は万能ではなく、すべての子どものことは把握できないと思いますよ。もちろんアンテナを張っておく必要は教師にはあると思いますけれど、ちょっとした変化は教師が思い過ごしと思うかも。そこに明確な境界はないのです。

かじかさん、確かに教師は万能ではないと思います。

しかし報道などで映る学校をみていると、どうしても教師が全力で生徒と向き合おうとしているようには思えません。(中にはいると思いますが)

もっと教師が真剣に一人一人と話す時間を設けるだけでも変わってくるのではないでしょうか。他愛のないことでもいいと思います。勉強をつめこまなければいけない現状もわかるけれど、人間として成長できていないのに、勉強ができたところでそんなものは何の意味ももたないと思います。

甘いようにも感じますが、結局のところちゃんと「話」をするということが大事なのではないでしょうか。これは今すぐにでも誰にでもできることだと思います。

教師の姿勢

仕事というのは教職であろうがなかろうが、目の前の仕事と真剣に向き合ってこそのものではないでしょうか。
 教師にとって、命の大切さを伝えることは仕事のうちだと私は思います。それも、仕方なくこなすようでは伝わらないでしょうから、そういう人は教職に就くべきではないと私は考えます。
 その意味で、教師が自分の仕事を「せねばならないことの一つ」ととらえるようになった気も、確かに私はします。学校でいうことなんてしょせん学校でしか通じないさ、社会に出たらリストラだっていじめだってあるんだし、とホンネでは思ってる教師が増えた気がするのです。
 本当は、教師の物事への見方こそ問われてると思うんです。現状の社会に迎合することが万能なのか?と。大学時代に哲学が必要なのはこのためです(そう考えると東洋大学はエライ)。でも私たちの時代から、学生は考えずに遊びとバイト(と「役に立つこと」)に明け暮れるものでした。それを放ったらかしにしたのが今の世の中なのではないかと思います。でも、今のマスコミもそういう学生たちが卒業後に集まった場ですから、学校だけを批判できない。学校だけでなく取材対象全般に対して同じこと。報道が弱体化するのも当たり前なんですよね。
 鮎川さん、命がいかに大切かをまず教師が知ることから始まる気がします。それもやらずに現在の職にぶら下がるだけでは問題は解決しないでしょう。それが、以前のコメントの最後で触れたことです。

番組の姿勢

鮎川ゆきさん、「まず何をすべきか」の前段を読むと、個性がある以上、いじめは不可避、と受け止められます。暴論であり、かつ、逆ではないでしょうか。

いまの若い人、といっても半世紀以上も生きている身からすると世の半分もしくは過半数か、わたしには無個性に見えます。画一的で、みんな同じ。そのうえ、そのことへの恐れではなく、圧倒的多数から逸脱することへの恐怖心が強いようで、つまり「みんなと違う」ことをしたり考えたりすることに、とても否定的に見えます。

いじめとは、そういう土壌で増幅しているのではないでしょうか。わたしの子どものときにも、いじめ(みたいなもの)はあった。ゼロにはならないかもしれない。けれども、内容的に変質しているように思います。いまのは明らかに「虐め」でしょ?

これ、わたしには、「異質」なものを排除するメンタリティだと見えます。個性を認めない風潮ではないかと危惧します。もちろん、この国においてはいつの時代でも「和」が大切だとして「個」をなしがしろにしてきたと言えますが。それにしても、最近は虐めの対象を選択する理由が、ほとんど言いがかりになってきているのでは?

それは、つまり、すでに同質の無個性な子どもばかりになってしまったから、異質の「異」を見出すのが困難だということではないですか。きょうは虐めていた側が明日、虐められる立場に変わるそうですね。それって、つまり、なんでもいいから虐めたいだけですよね。

個性的な子どもに対しては、何となくからかいたい、という面もあるにはあるでしょうけれど、いまの虐めの根源は、同質ではないものを排斥したいという願望の表れではないかと思います。

蛇足ながら、こうした状況にあって、人は、直感的に「自分探し」に熱中するのではないか。個性の「個」とは何か、知らずに育った人に、どうして「自分」を探せるのか。二度と戻れない、答えのない旅に出て行く人があまりにも多いように思いますが、「オンリーワン」なんて言葉が恥ずかしげもなく跋扈する時代、本能的な欲求なのかとも理解します。

「テレビ報道を考える」場において、内容の是非に踏み込んでしまいました。ご容赦。

強引に本筋で語れば、わたしには相当に、見た目もしくは「キャラ」とは裏腹に、物事を真っ当に考える人であり十分に個性的である、ジュニア・長嶋一茂氏をコメンテータに選ぶ番組の姿勢を、評価します。おそらくは、自身、「いじめられる側」だったのではないか。

タレント・コメンテータの多くがつまらんのは、いわゆる「勝ち組」であり、成功体験しか口にしないからで、そのうえに現在の地位を失うことへの恐れからか当たり障りのないことしか言わないからではないか。

一茂氏に対する関心は、わたしも高いわけではなかったけれど、ときおり、ズバッと本音・本質を語る場面に出くわし、只者ではない、ただの二世ではない、と見直しつつある。あんな天才を親にもてば、随分と苦労したのであろう。その蓄積が、いま、わたしの心を撃つ。

コメントには解説の意味も含まるのだろうが、専門的な用語やらは文字通り専門家に任せ、番組・司会者が言えないことを代弁させるなら、まさに個性あふれる異端者を起用してもらいたいものだ、と、一視聴者は思う。

異質性の排除こそ根本的要因

外野席さん、大賛成です。本当は異質性の排除に原因があるのでしょうけれど、誰も触れない。同質性によって今の自分の地位があるのだから、触れるはずはない。フリーランスはいうまでもないし、テレビ局だって勝ち組の人ばかり。異質度や性格等によって、迎合できる人もできない人もいるのに、同質的になれない奴が悪いんだ、と安易に決め付ける。これでいじめのない社会になったら、そのほうが奇跡ですよ。
 個人的には、職がなかろうが何だろうが25条に基づく施策強化で生きる保障をするしかない、と思っています。これで慌てるのは「勝ち組」の人たちでしょうね。思い通りに動かせる人が減るわけですから。でも誰にでも生きる権利が本当にあるのなら、これしかないと思うのですけど。
 趣旨に関係ない話は私からはこれくらいにします。

専門家

すみません、もう一言だけ。これは日芸の学生さんにも考えてほしいことですが。
 専門家の言動は傾聴すべきとは思いますよ。素人では考えつかない視点や問題点があったりしますので。
 ただ彼らは黄門様ではありませんから、素人として気をつけねばならないことは、その専門家がどういう見方をし、どういう価値観を持っているかをつかんでおくことです。これがないと専門家の言動に流されてしまいますので。それに、テレビはどういう狙いで専門家を呼んだか視聴者に提示しませんから。

>教師にとって、命の大切さを伝えることは仕事のうちだと私は思います。それも、仕方なくこなすようでは伝わらないでしょうから、そういう人は教職に就くべきではないと私は考えます。(かじかさん)

確かに、明らかに子供達を教育する立場にふさわしくない人が教師に簡単になってしまっているのも問題です。教職をとるためのシステムから見直すべきかもしれませんね。

ただ毎日子供達に必死で向き合っている先生達もいるはずです。それでも授業崩壊などが増え続けている根本の原因はやはり親にあるのではないかと思います。親の子供に対するかわいがり方、育て方が変わってきているのではないでしょうか・・・甘やかすことがやさしさ、その間違った優しさが素晴らしい教育だと勘違いしている親がたくさんいすぎるのではないでしょうか。ちょっとそこらへんの親をみてみるとすぐに目につきます。一概に家庭がすべてだとは言えませんし、学校も子供の成長に必要不可欠な場所だと思いますが、やはり一番近くにいるのは親です。1に家庭、2に学校だと思います。

>鮎川ゆきさん、「まず何をすべきか」の前段を読むと、個性がある以上、いじめは不可避、と受け止められます。暴論であり、かつ、逆ではないでしょうか(部外者さん)

たしかに暴論のように思われるかもしれません。意味合いとしてはいじめをゼロにすることは不可能に近いと思うと言いたかったのです。いじめをすべてなくすことは不可能だと思うし、ただそれをいかにして最小限に食い止めるかというところだと思います。それにはやはり大人の力が必要です。部外者さんがおっしゃるように、いじめの質が昔と変わってきていると思います。

ただ時代が変わるとともに社会が問題とするものも変わっていき、人の生活も変わっていきます。それと同時に人々の抱える内面的な問題も変わってくるとおもいます。その変化はいじめる側のやり方に一番出てきています。

思うこととしては、何をするにもみな臆病になっている(他との同調を一番に考えている)そして、人に対しての言動・行動の加減がわからなくなっている。ということです。

これは大人がそれを教えてこなかった意外に理由がうかびません。「足で人を蹴ってはいけません。」「人の悪口を言ってはいけません。」「目上の人には敬語をつかいなさい。」

こういうことを小さいときから繰り返し繰り返し教えてこなかったからではないでしょうか。当たり前のことなのですが、現にこれが出来ている子供がどれくらいいるのでしょうか?

今の子供達が度を越えたいじめに苦しんだり、簡単に命を奪ったり落としたりするのは、一に教師がどうこうではないと思います。例えばテレビや携帯による過激な情報が簡単に子供達に垂れ流されている世の中だとしても、それを食い止めることはできるはずです。一番身近な親がそれをすることができます。

親は子供にとって一番初めの一番大きな社会なのではないでしょうか。

確かに親権者は教師より悪い

鮎川さん。実は私、「教師より親に責任」ということについては賛成です。というか、親たる個人と社会とが互いによくなろうとしないのです(ということでブログ貼っておきます)。いや、親でなくて本当は親権者というべきですね。
 親権者は子どもを育てる存在として、子どもを心身共に健やかに育てねばなりません。ところが、例えば自分も他者も大切にするということにしてもそうですが、自分なりの見識を持たずに親になってます。これは、「みんな親になってるんだから」と、結婚することや親になることを安易に考えているからではないでしょうか。貧しく子だくさんな中で育った時代なら、周囲の目が強かったということもあり「子どもは放っておいても育つもの」だったでしょうけど、とっくにそんな時代は終わっています。
 自分が普段からモノ考えてないと、自信をもって子に接することなどできません。子育てでは親権者と子とにある程度の上下関係は必要ですが、それで縛りさえすればいいという態度では子どもはついてきません。親になるのはそれほど大変なことですが、結婚し子どもを持つかどうかという選択を重大に考えてない安易な親権者が増えれば、それだけ安易に育った子どもが増えるのも当然なのです。

※ところで皆さん、18日13:30から東京・神保町の岩波セミナールームで「日本世間学会」の研究発表大会が行われますが、ここで私がテレビと世間との関係を発表することになりました。興味やお時間のある方はどうぞ。但し席が足りないかもしれませんので、事前に事務局へお問い合わせ下さい。http://www.unicahier.com/SEKEN/seken.html

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●ブログ開設は2006年ですが、1999年からマスコミ演習、マスコミII、放送特殊研究Vといった授業を担当しており、2005年以前のレジュメなど古いものも置いてあります。(坂本 衛)
 

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