テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

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開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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宮藤官九郎の講演と重なり、そちらに行ってヨシ 2009-10-30

宮藤官九郎の講演と重なり、そちらに行ってヨシ
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真田広之の講演と重なり、そっちに行くように! 2009-10-23

真田広之の講演と重なり、そっちに行くように!

聴衆の学生が少なく、送り込んでくれと講師室で言われたので、そうする。

坂本韓国出張のため休講です。よろしくね。 2009-10-16

坂本韓国出張(2009年10月14日~18日)のため休講です。よろしくね。

水俣─患者さんとその世界─(土本典昭監督)後半 2009-10-09

●「水俣─患者さんとその世界─」は土本典昭の代表作。もう一本と言われれば「ある機関助士」(1963年のデビュー作。国鉄のPR映画だが、カネを出させた国鉄の意図とはかけ離れた名作。最高のSL映画との呼び声も)だと思うが、もっともこだわったのが水俣。《医学としての水俣病》三部作 (1975)はじめ20本近い映像作品を残した。

●土本典昭は、その目指す「未知のドキュメンタリー」を、「(1)歴史的な尺度での人間への信頼、(2)映画人としての独立。(3)そして何より、科学をもって四囲のデータをかため、その科学を表現としての芸術に高める」ことによってのみ到達できると定義。自らの映画づくりに、以上3点の条件を厳しく課した。土本は「いわゆる通常TV局の客観的報道なるもの、Aの意見、Bの意見をならべるといったものと画然と区別されるファクターは、右の3点のほかに、両者ともに正負にせよ関係を持続しぬく覚悟であろう」という。

●土本典昭に、水俣との関係を持続することを覚悟させたものは、65年にテレビ取材で水俣を訪れたとき、患者家族が土本にぶつけた「なして撮るか」「撮ったって少しも体がよくならんばい、この子は。人を見せ物にして」という言葉だったとされる。この言葉に衝撃を受けた土本は、水俣で家を借り、本格的な撮影を開始する。その最初のまとめが、この映画。「よりそう」という言葉があるが、それとは違う。カメラを担ぐ者の、そのことによる関係性の構築というか、カメラを持ってそこにいて彼らに会いたいというか。



↓こんなのも読んでみるといい。

土本典昭の100年の海へ



《坂本が授業で言ったこと》
●最初は港の魚を食った猫が、狂ったように飛び跳ねたり、よろけたりして死んだ。小さいものが大きいものに食われるという「食物連鎖」を知っているだろう。汚染物質は最後に食った者に大量に溜まる。それが猫や人間だった。

●神経症状が出るので、患者が忌み嫌われ、ひどい差別を受けた。患者の家族という理由で離縁された女性が映画に出てくる。水俣の周辺地区では、魚が水俣同様に売れなくなるという理由で、同じ症状の患者発生が隠匿された。たとえば東京のヤツは関係ないと思っているわけ。いちばんひどい患者差別は、当の水俣で起こるんだよ。

●70年代まで患者発生が続いたことや裁判の経緯から、国・県による原因究明、対策、補償が話にならないほど遅れたことは疑いない。そういうデタラメな国、無責任な国、貧しい国が日本だ、ということを忘れるな。

●映画に出てくる胎児性の子どもは、私(1958年生まれ)と同い年くらいだ。ただ水俣湾のそばに生まれ、おっ母さんが港に上がる魚を食っただけで、目が見えず、まっすぐ歩けない。大昔の話ではない。私と同世代、諸君の両親と同世代で、いまだに苦しんでいる人がいる。そういう「事実」を自分の視野に入れておけ。

●映画は静かな海の、漁師の小舟から始まる。タコを採ってるじいちゃんも出てくるね。若い患者の遊ぶ場面や、胎児性の女の子(たぶん坂本とそう変わらない歳だ)が、ほかの子どもが遊んでいたり生活感ただようなかで、なんというかひょろひょろと歩くシーン。直接、病気がどう原因企業がこうでと言わない、ああいうシーンが(私の場合は)目に焼きついた。この作家も「これだ」と思い「おおっ」と感動しながら撮ったんじゃないか。間違っても単なる公害告発映画と思わないように。

《坂本が授業で言わなかった追加》
●水俣病患者の不幸は、イケイケドンドンの高度経済成長の犠牲になり、見捨てられ放置されたというだけではない。「公害とは階級問題である」と主張するようなバカどもに利用され、患者救済運動が反政府運動のようになりすぎた面がある。あまり指摘されないが(何しろ救済運動側の責任大という主張だから)、そのことが問題をこじらせ、解決を遅らせたことは否定できない。検証が必要だ。

「水俣─患者さんとその世界」(土本典昭監督)前半 2009-10-02

●水俣─患者さんとその世界─

●1971年(167分)

●監督/土本典昭 製作/高木隆太郎 撮影/大津幸四郎

●第1回世界環境映画祭グランプリ、マンハイム映画票デュキヤット賞、ベルン映画祭銀賞、ロカルノ映画祭第3位

●水俣病とは(平凡社「世界百科大事典」ほかを参考に、坂本が簡単にまとめておく)

工場排水に含まれた有機水銀(メチル水銀)が海や川の魚介類を汚染。それを食べた人間が発症した有機水銀中毒で、代表的な公害病の一つ。熊本県水俣市で最初に発見され、この名がつく。水俣湾を中心とする水俣病は1956年ころから見られ、59年7月には熊本大学医学部水俣病研究班が新日本窒素肥料(チッソ)水俣工場の排水が汚染源と特定。日本政府の正式認定は68年9月。政府が正式に解決策を提示したのは95年12月。ほかに新潟水俣病 (阿賀野川有機水銀中毒)も知られる。

症状は中枢神経系の障害が特徴的。初期の患者では手足のしびれ、脱力、歩行時動の揺、言葉不明瞭、手足痛などに始まり、痙攣《けいれん》、よだれ、ふるえ、さらに四肢麻痺《マヒ》、視力障害、意識混濁、精神錯乱がみられ、発病3か月以内に過半数が死亡。このような典型的なメチル水銀中毒の症状は、初めて詳細に報告したイギリスの医師ら名にちなみ「ハンター=ラッセル症候群」と呼ばれる。以上の典型的、急性で症状が重い患者のほか、患者の家族や近隣者にもさまざまな神経症状が認められ「潜在性水俣病」と呼ばれる(明らかになったのは70年以降)。母親が妊娠中に有機水銀に汚染された魚介類を食べた胎児が発症したものは「胎児性水俣病」と呼び、水俣で六十数例ある。症状は一般の脳性小児麻痺によく似ている。

患者発生は1950年代から70年代前半まで。なんらかの汚染を受けた住民は20万人以上との見方もある。96年1月時点で、公害健康被害補償法に基づく熊本・鹿児島両県の公害被害者認定審査会が正式に水俣病と認定したのは2260人(棄却1万4205人、審査未処理者1019人)。新潟の認定患者は690人(棄却1304人)。

1969年6月に患者29世帯がチッソを相手に総額約6億4000万円の損害賠償請求訴訟を起こし(一次訴訟)、73年3 月に患者勝訴の熊本地裁判決。その後、患者らの1年8か月の座り込み運動などをへて、73年7月に患者とチッソが「水俣病補償協定」締結。さらに認定を棄却された患者の二次訴訟、国・県の責任と水俣病認定を求めた三次訴訟と裁判闘争が続き、96年5月の和解では一定の神経症状のある1万4000人が一時金280万円と医療費・療養手当を受けることに。

熊本県と国は、チッソが36年間水俣湾にたれ流した水銀を含むヘドロを、500億円近い費用と14年の歳月をかけて埋め立て、1990年3月に工事完了。 水俣湾内の魚の水銀値が3年間安全基準以下であったとして、熊本県知事が安全宣言を出したのは実に、患者発生から40年近い1997年7月だった。

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●このブログは、日本大学藝術学部(日芸またはNGと略)放送学科の授業の一環として設置しています。学外の方も自由に閲覧やコメントしていただけます。学生らの活動を厳しく、ただし温かく見守っていただければ幸いです。学生には「ブログ炎上も授業のうち」といってあります。

●ブログ開設は2006年ですが、1999年からマスコミ演習、マスコミII、放送特殊研究Vといった授業を担当しており、2005年以前のレジュメなど古いものも置いてあります。(坂本 衛)
 

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