テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

テレビ報道を考える!! 日本大学 藝術学部 放送学科 「放送特殊研究V」ブログ

開設:2006-05-25 (通年 4単位 3年以上 選択 江古田校舎 放送学科専門科目)

日本大学藝術学部放送学科「放送特殊研究V」(担当講師/坂本 衛)のブログ。2017年度のテーマは「放送・報道における日本語表現の研究」です。

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東京オリンピック (1965年 市川崑監督作品)その1 2009-06-26

●東京オリンピック/Tokyo Olympiad

●監督/市川崑
●音楽/黛敏郎
●脚本/市川崑、和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎
●撮影/宮川一夫、林田重男、中村謹司、田中正
●ナレーション/三國一朗

●1965年(カンヌ国際映画祭国際批評家賞)

●170分

手抜きで悪いが、2008年度の関連ページを参照。

東京オリンピック (市川崑)その1
東京オリンピック (市川崑)その2
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「ハノイ 田英夫の証言」 2009-06-19

●ハノイ 田英夫の証言

●TBS 1967年10月30日放送 

●当時TBSの田英夫が、西側メディアとしては初めて、アメリカ空爆下の北ベトナム・ハノイに入り、街や人びとの様子を克明に伝えた番組。

田は番組で、ハノイの人びとがほぼ定時の米軍の爆撃に対処する(たこつぼに避難したり、火災を消したり、負傷者を救助したり)するのを除けば、めげることなく貧しいが活気ある暮らしを送っており、彼らがが不思議な「微笑み」を浮かべているとレポート。米軍はハノイを破壊しつくすかもしれないが、ハノイの人びとは屈せず、アメリカはベトナムは戦争に勝つことはできないだろうと、強く示唆した。

結果的にその通りになったから、この番組は(西側)世界に先駆けてベトナム戦争の成否を問い、ベトナム戦争の帰趨を見通して、日本の報道の力を示した、戦後日本を代表する報道番組と言うべきである。当時の西側世界では最高水準の報道番組と言ってもいい。当時のTBSは「ドラマのTBS」であり「報道のTBS」で、要するに「民放の雄」だった。その象徴的な番組。

●以下は、坂本サイト放送お騒が史1960~1969から。1967年10~11月の3項目。

10/30 TBSが報道番組「ハノイ―田英夫の証言」を放送。キャスター自身が自分の取材・体験をもとにフィルムを流しながらスタジオから語るニュース・ドキュメンタリーで、西側テレビ初の詳細な北ベトナム取材報告でもあった。田は「北爆下のハノイ市民の表情に容易ならざる微笑を見たが、それがこれからの戦争の方向に大きな影響を持つだろう」と、アメリカはベトナム戦争に勝てないとの見通しを伝え、大きな反響を呼ぶ。

10/31 20日に死去した吉田茂・元首相の国葬(葬儀委員長・佐藤栄作首相)が日本武道館でおこなわれた。国葬は戦後初。25日の閣議では、国葬当日、各省庁は弔旗を掲揚し葬儀中の一定時刻に黙祷、公の行事・儀式その他で歌舞音曲を伴う行事を自粛、各公署・学校・会社でも同様の方法により哀悼の意を表することなどを要望する方針を了承。これによって31日のテレビ・ラジオから歌謡・演芸・クイズ番組などが一斉に姿を消したため、28日にマスコミ関連産業労組共闘会議が「政府による言論統制」として抗議声明を発表。

11/7 東京・平河町で自民党から幹事長・田中角栄、橋本登美三郎、広報委員長・長谷川峻、元郵政相・新谷寅三郎ら、TBSから社長・今道潤三、編成担当常務・橋本博、報道局長・島津国臣が出て「懇談」が開かれた(もちろんテレビ側が呼びつけられた)。自民党側は「どうして田英夫を北ベトナムに行かせたのか」「田が行けばああいう内容になるのは初めからわかりきっているはずだ」などと難詰。田英夫が日本ジャーナリスト会議の会員であることについても個人攻撃に近い言及があったとされる。

●これと、翌1968年3月のいわゆるTBS成田事件で、TBSに対する与党自民党・日本政府の圧力が爆発。TBSの報道は壊滅的な打撃を受け、TBSの報道局員は「真実の報道は死んだ」と全員が喪章をつけた。TBS成田事件の翌日3月11日、小林武治郵政大臣が今道潤三TBS社長に電話し、のっけに「お前は社長を辞めろ!!」と発言。木村俊夫官房長官もTBS幹部に電話し「これでお宅から一本いただいた」と発言。これも坂本サイトで読める。というか、坂本サイトでしか読めない。調べろ! 勉強しろ!

●田英夫は共同通信社の社会部・政治部出身(社会部長、文化部長などを歴任)で62年にTBS入り。『JNNニュースコープ』のメインキャスターとなり、キャスターニュースの先駆けとなったが、TBS成田事件後に降板した。TBSは「後世から見れば、西側世界で最高水準の報道番組」のスタッフを切り捨てて、生き残りを図ったとも言える。そんなテレビ局って何なのだという話になるね。90年代にTBSが「死んだ」のはオウムビデオ事件。このときは朝日新聞出身の筑紫哲也がTBSを代表して謝罪した。田も筑紫もいずれもTBS生え抜きではないことに注意。

●TBS成田事件で退社した連中が70年につくったのがテレビマンユニオン。彼らの浪人中の給料はちゃんとTBSが支払い、この会社はTBSの庇護下で成長した。『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』(1969年)の萩元晴彦・村木良彦・今野勉がそう。ウィキペディアにはテレビマンユニオンを「独立系制作プロダクションの草分けと位置付けられ、制作業界ではオピニオンリーダー的立場を担ってきた」と書くが、この意味では「独立系」などではなく、手厚い庇護を受けたモロ「TBS系」。また、TBSにいられなかった人びとが、そのことゆえにテレビ制作業界のオピニオンリーダー的立場を担ったわけ。その意味をよく考えなければダメだ。

●見せたのはモノクロの映像だね。YouTubeでカラー映像を見ることができる。興味がある人は探してごらん。

●冒頭、「あなたにとってベトナムとはいったい何ですか?」と、冷たい声で女子アナが聞くね。「突然なんなのだ、お前は。無礼じゃないか」といわれて当然の感じで、暴力的に聞く。まあ、当時の流行《はやり》というか、「あなたにとって日の丸とは」と、みんなやっていた。カメラは暴力装置であるという自覚の表明ね。後に見せる田原総一朗や原一男も、このことに自覚的。田原は政治家その他の話を暴力的にさえぎるだろう。あれは「キャスターは暴力装置である」という自覚の表明ともいえるわけよ。

●田は番組でクラスター爆弾の非人道性についても語る。40年前に、世界的に禁止という現在の方向を見通していたとも言える。そのような優れた点は多々あるが、ドキュメンタリーとして「これはどうなんだ」という場面もあるぞ。北ベトナム側の宣伝映像を断りなしに使っているとかね。そういうところを、疑いながら改めて見るという姿勢が超大事。

ラストデイズ25th/26th 2009-06-05

ラストデイズ~第二次世界大戦終結への道~
LAST DAYS OF WWII

●#24 1945年8月5日から11日まで

トルーマン大統領は、側近の助言もあって、1945年8月6日に、世界初の原爆を投下することを決定した。
午前8時15分にリトルボーイが投下された。高度580メートルで爆発し、広島は一瞬で地獄と化した。2発の原爆投下と、ソ連の宣戦布告で、昭和天皇はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏することを決定した。こうして長かった第二次世界大戦が終結しようとしている。

●#25 1945年8月12日から18日まで

日本の敗戦、占領へ。資料がないので、以下略。



「ヒストリー・チャンネル」のテレビ・ドキュメンタリー。第二次大戦が終わるまでの半年・26週を1週間刻みで番組にしようじゃないかという発想そのものを、「ふーん、なるほど」と思ってもらいたい。歴史を売り物にする専門チャンネルならば当たり前か。だが、日本には「歴史チャンネル」というのはないの。「ヒストリー・チャンネル」を日本語字幕で見る以外には。なんで? NHKがそれに近い役割を果たしていると、いえないことはないけれども。

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●このブログは、日本大学藝術学部(日芸またはNGと略)放送学科の授業の一環として設置しています。学外の方も自由に閲覧やコメントしていただけます。学生らの活動を厳しく、ただし温かく見守っていただければ幸いです。学生には「ブログ炎上も授業のうち」といってあります。

●ブログ開設は2006年ですが、1999年からマスコミ演習、マスコミII、放送特殊研究Vといった授業を担当しており、2005年以前のレジュメなど古いものも置いてあります。(坂本 衛)
 

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